空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

「駅路」の結末について

2009年04月13日 10時15分34秒 | 思考試行
松本清張の作品は、社会性がある。人情がある。説得力がある。細部にわたる取材がされているから破綻がない。人気があるのは、いわば当然だろう。

彼自身、生活のなかで、エリートコースを歩んできたわけではない。たたき上げの小説家である。だから、どの作品にもそれが反映しているようだ。文体とか、レトリックとか、テクニックよりも、その筋立て、内容が、彼の作品のもつ力を示していると思う。

それで、「駅路の結末」についての、キーワードで、これを「教えて」とする検索をかけておられる方が、小生のブログにも寄せられている。何も小生に、教えてと依頼されているわけではないが、探しておられるという事実のあることが、ブログアドバンスを利用している小生にも届いたのである。

そこで、結末について考えてみたい。どういうシーンで終わったのかといえば、小生の記憶は定かではない。ホンマにどこを見ているのか、といわれそうだが、要は列車の中で、役所公司演ずる刑事の独白というか、彼のシュシュポッポの心理状態を言っているのではないか、と察するのだが、間違いだろうか。

小生、昨日のブログでも少し書いたけれど、少し感覚的に役所刑事の「思い」が強すぎるように感じたのだが、その違和感が、小生よりも、もっと強い方がおられて、「ナンヤどういうことや、この結末は?」ということになったのでは、と推察する。

思いが強すぎるといったが、石坂浩二演ずる銀行員の気持ちの理解の程度が、若手刑事と役所演ずる定年間近い刑事と違うことに表現されている。

人間の本当に生きたい方向というのは、現実生活のなかでは、よくよく考えると満たされることはない。子供の犠牲になり、その他もろもろの条件にガンジガラメになって生きているのが実態である。そこに、目がいったものは、ガマンガマンの人生である。

ゴーギャンの絵を自宅に飾り、その生き方に深い共感をもつ銀行員、その生き方を実感し、理解している機関車の写真を撮影する趣味を持つ刑事。それが、若手刑事の理解できない本音の世界を語ってみせた、ということではないか。

当事者である深津絵里の心理も語られるが、刑事は彼女に石坂銀行員の本音、真意を伝える。誠実に、「戦友」の気持ちを伝える。そして、それが証明されるシーンも用意されている。

誰もが、石坂銀行員のようには生きてはいけない。役所刑事のようにシュシュポッポとガマンしながら生きていくのである。十朱幸代奥さんの「悔しさ」の激しさも説得力がある。彼女もまた、ガマンの人生だったのである。良家の娘が、アルベキ人生をキチンと、しかし面白くもなくガマンして生きてきているのである。それを連れ合いに裏切られてしまった。

人生みんなタイヘンなのである。ところが、ココントコロは、その「思い」が薄くなってきているように見える。もっとドライになってきているということかもしれない。