継続的に、物事を続けることは、いつかはできなくなる。そうなると、それまでで、どんなに活躍した人も、忘れ去られてしまうことになる。そして、その人を記憶する人が消えた後は、何事もなかったようになってしまう。
そう考えていたのだが、父親がなくなって、人が何度か集まり、古いアルバムを見たりする機会があって、曽祖父とおぼしき人物の写真が出てきた。
その写真をみて、なんと、今、身内の中の、何人かにその人の特徴を、面影を明らかにしている人をみて、ああこれが遺伝というものかと、納得したことがあった。
自分の感覚の中にも、祖父や祖母の、感覚が宿っていて、それらが、化学変化を起こしながら、今生きているという感じがすることがある。
この混じり具合が、自分なのだが、間違いなく、受け継いできたものであり、そして、そのなかには、夥しい要素が混じりこんでいるのである。
もはや、人生も曲がり角を過ぎた。まだ、しかし、何事も為していない気分である。何事か為さんとして、振り返ってみて、何もしていないというのでは、寂しい限りであるが、それでも、仕方がない。これからも、今できるところをすこしづつやるほかない。それでいいのだとも思う。
そう考えていたのだが、父親がなくなって、人が何度か集まり、古いアルバムを見たりする機会があって、曽祖父とおぼしき人物の写真が出てきた。
その写真をみて、なんと、今、身内の中の、何人かにその人の特徴を、面影を明らかにしている人をみて、ああこれが遺伝というものかと、納得したことがあった。
自分の感覚の中にも、祖父や祖母の、感覚が宿っていて、それらが、化学変化を起こしながら、今生きているという感じがすることがある。
この混じり具合が、自分なのだが、間違いなく、受け継いできたものであり、そして、そのなかには、夥しい要素が混じりこんでいるのである。
もはや、人生も曲がり角を過ぎた。まだ、しかし、何事も為していない気分である。何事か為さんとして、振り返ってみて、何もしていないというのでは、寂しい限りであるが、それでも、仕方がない。これからも、今できるところをすこしづつやるほかない。それでいいのだとも思う。