ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(4)

2011-04-10 23:44:59 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 五木寛之が引き揚げ体験を簡単には語れない理由として、「雑民の魂」では次のような「深夜の自画像」の文章を引用しています。
 
 「(ひめゆりの少女たちや原爆の被害者たちと違って)引揚者たちの心理の奥には、植民地において、自分らが支配階級として存在していたという事実に対する罪の意識が沈澱しており、また敗戦後の外地において、最も怖ろしい敵対者が、ソ連兵やこれまでの被支配民族ではなく、日本人同志であったという、うしろめたさがよどんでいる。そして、その事実が引揚げの悲惨を声高に訴えることにブレーキをかけており、口を重くさせているのだろう。 
 自分の手で幼児を殺した母親、兄弟と食糧を争いあった少年、妻が暴行されるのを傍観せざるを得なかった夫、人民裁判と密告、そして引揚船における報復としての私刑、など、自ら声を大きくして叫ぶのをためらわせる体験が彼らの被害の中には織り込まれているからだ。」


 私ヌルボは3月20日舞鶴引揚記念館を訪れました。
 この記念館の開館は1988年。終戦後43年も経った後です。館に隣接する丘の上の引揚記念公園にしても、開設されたのは1970年。
 「こんなに大勢の引揚げ者の貴重な体験を伝える施設が、なぜ戦後長い間設立されないままだったんですか?」と語り部(ガイド)の方に尋ねると、次のような答えが返ってきました。
 「引き揚げの歴史を語るとすると、なぜ「満州」や朝鮮に多くの日本人が渡っていたのか、という侵略についても当然説明しなければなりません。それを避けようとしたんですね。」
 このあたり、先の五木寛之の文章と重なり合います。
 語り部の方の話では、現在展示物やその説明文についても見直しが進められているそうです。つまり、「加害者としての歴史」もきちんと入れていくという方向で、です。

 ヌルボが引揚記念館の訪問記を3週間書かなかったのはナマケ心からばかりでもなく、偶然読んだ「雑民の魂」を、引揚げをめぐる歴史的状況を知るためのひとつの前提として紹介しておこうと思ったからです。

 記念館では、たまたま「平壌(へいじょう)から引き揚げてきた」という90歳近いおばあさん(終戦当時22歳とか)と話す機会がありました。福岡の方で、孫の高校生の少年とその母親(おばあさんの娘)と一緒です。娘さんの話では「最近になって初めて北朝鮮から引き揚げてきた」ということを語り始めたとのことでした。
 なぜ終戦後67年(!)も経った今になって、おばあさんが北朝鮮のことを語り始めたかはわかりませんが、もしかしたら、彼女の場合も語れないほどの重い体験があったのかもしれません。

 昨年4月26日の記事「朝鮮から引き揚げた一女性からの聞き書き」でも朝鮮戦争の写真展(at横浜)で大田(たいでん.テジョン)から引き揚げてきたというおばあさんのことを書きました。
 そのことがアタマに残って、その後森田芳夫「朝鮮終戦の記録」をはじめとする引揚げ関係の本をいくつか読んだり、西新宿の平和祈念展示資料館に行ったりしたわけで、また唐津に行った理由の1つもこの件です。そして舞鶴引揚記念館に行ったのも・・・。そこでまた引揚げ者のおばあさんに会ったというのもちょっと因縁めいた話ではありました。

 「雑民の魂」については、つけたしのつけたしがあと1回分あります。
駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(5)

駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(1)
駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(2)
駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)
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駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)

2011-04-10 18:43:11 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 終戦後、同じ朝鮮半島からの引揚げでも、総体的にみて、38度線の北と南では苦労の度合いは大きな違いがありました。
 いうまでもなく、北からの引揚げの方がはるかに酷薄なものでした。
 その理由は、以下のようなものです。

①8月8日の宣戦布告以降わずかの間に「満州」・朝鮮北部に侵攻してきたソ連軍により多数の日本人男性が抑留され、またロシア人兵士による略奪、放火、殺人、暴行、強姦のような蛮行が甚だしかった。現地の朝鮮人に保護された日本人もいたが、一部朝鮮人により暴行を受けたり家財を略奪された事例も多い。
②南朝鮮の日本軍が1945年11月下旬までに送還され、一般日本人もアメリカ軍政による計画輸送によって1946年3月におおよそ引揚を完了したのに対し、北朝鮮ではソ連軍が日本軍を抑留し、38度線を封鎖して公然の南下を許さなかった。そのため多くの日本人は命がけで38度線を越えなければならず、その過程で多くの犠牲者を出した。
③上記のような事情で、捕虜収容所に収容された日本人たちは、ふとんや衣服も不十分な中で、零下20度以下にもなる厳寒の冬を越さなければならなかった。そのような寒さと飢えに加え、チフスに感染して死んだ人も多かった。


 このような状況下で、38度線以南の日本人がほとんど引き揚げた1945年暮れの時点で、北朝鮮では約31~2万の日本人が残っていたそうです。もともと北朝鮮に住んでいた27~8万と、満州から逃げてきた4万人です。
 森田芳夫「朝鮮終戦の記録」によると、「北朝鮮における死亡者総数は三万五千名を越える。戦後の海外日本人の引揚集団中、西北鮮に流入した満州避難民および咸鏡北道避難民は、満州開拓団とともに、最高の死亡率を示している」とのことです。
※参考<Depo3>というサイト中の「敗戦による朝鮮引揚げの惨事」など。

 38度線以北からの帰国者の手記を読むと、悲惨な体験の記録がこれでもかとばかり綴られています。
 五木寛之少年の場合もそのひとつです。
 3月26日の記事で書いた通り、終戦直後北朝鮮に侵攻してきたロシア兵によって五木寛之の母は殺されました。
 この事件の日から父は全く放心状態になってしまいます。役立たずになった父に代わって、弟と生まれたばかりの妹をかかえて、満13歳の五木寛之少年は一家を支えます。川の補修工事に出たり、少年窃盗団のようなものを組織したり・・・。
 当時、大人たちは「なぜこんな目に合わなければならないのか?」と繰り返していました。「内地へ帰りさえすれば・・・」
 しかし、五木少年はその「なぜ?」という言葉に、かすかに引っかかるものを感じます。
 「それほど素晴らしい内地なら、どうして両親たちはその土地を離れてここへ来たのか? あの無数の難民たちは、なぜ内地からやって来たのか? ・・・・」(「風に吹かれて」)
 五木は、「一度、それを口に出して、雪の上に殴り倒された。その時は相手を殺してやろうと思った」と言っているそうです。

 そして38度線越え。
 「海を見ていたジョニー」(講談社文庫)所収の「私刑の夏」は、ソ連軍将校とのコネを持つ日本人闇屋の仲介で、600人を越える日本人たちが12台のトラックに乗せられて38度線をめざす話です。その最後の場面。トラックを下りて38度線を見渡せるはずの丘に駆け登った日本人たちが見た光景は平壌の町でした。
 ・・・闇トラックで脱出をはかったものの騙されたというわけです。これは五木自身の体験だそうです。(他にも、同様に「騙された」という手記を読んだ記憶があります。)
 結局脱出行は2度挫折。3度目に成功するのですが、その途中父は足手まといだった赤ん坊の妹を1度は捨て、その後コース変更でそこに戻ると座ったままの妹がいて、まわりの人が「縁があるのだから・・・」と言うので仕方なく連れて帰ることにしたといいます。

※2回目の脱出行について、五木は「文藝春秋」2007年5月号の「わが引揚げ体験と昭和の歌」と題する藤原正彦との対談で自らの体験を語っています。→コチラ
※「私刑の夏」は「戦後短篇小説再発見⑦ 故郷と異郷の幻影」(講談社文芸文庫)にも所収。この本に収められている他の作品にも注目!

 結局、五木寛之の一家が38度線を越えて開城への脱出に成功し、仁川の港から帰国の途についたのは1947年。
 2006年NHKの「ラジオ深夜便」で語ったところによると、引揚船で博多港に着いたものの、「コレラ・赤痢が流行っていて船中にとじこめられ、DDTの粉をポンプのようなもので頭からふっかけられて上陸した。・・・・15歳以上の女はつれていかれた。妊娠している人は麻酔もかけずにコンクリートの上で処分された」ということです。

 「雑民の魂」で五木寛之の経歴について詳しく書かれているのは38度線越えまでの朝鮮体験です。帰国後もいろいろあるようなのですが、このブログでもここまででひと区切りとします。
 付け足しをあと2回分書きます。

駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(1)
駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(2)
駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(4)
駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(5)
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