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駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(1)

2011-03-26 16:05:52 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 古本屋で雑民の魂」(講談社文庫)という100円の文庫本を手にとったのは、著者が駒尺喜美先生(1925~2007)だったからです。10数年前「高村光太郎のフェミニズム」を読んだのですが、学問的な本であんなに熱中して読んだのは滅多にないので印象に残っていました。
 パラパラとめくってみると、この本の中身は幼時に関釜連絡船で朝鮮に渡り、終戦の時まで彼の地で育ったという五木寛之のことが詳しく書かれているではありませんか。それも非常に強烈な、その後の彼の作家生活を方向付けるような原体験が・・・。

 五木寛之は1932年福岡県八女市に生まれましたが、生後間もなく両親におぶわれ、関釜連絡船で朝鮮にわたりました。
 ※稲垣足穂との対談(「短歌」昭和48年3月号)で、五木は「生まれて三月くらい」で朝鮮に渡り、「育ったのは京城と平壌です」と語っています。
 ※全然関係ないですが、石原慎太郎と同じ生年月日(1932年9月30日)です。

 五木の両親は教育者でした。
 「雑民の魂」には、「地図のない旅」から次のような文が引用されています。

 私が五歳か六歳くらいの頃、私たち一家は韓国の片田舎へ移り住んだ。父はその村の小学校の校長に任命されたのである。その村には、日本人は私たちを含めて二家族だけしか住んでいなかった。私たちがその村へ車で近づいて行くと、村のおもだった人々が、唯一の先住日本人であった警察官を先頭に、赤松の林のはずれまで迎えにやってきていた。・・・・私たちが村の入り口の橋の近くへさしかかると、手に手に日の丸の小旗を持った児童たちが道の両側に並んで、私たち、校長一家を迎えているのが見えた。『天皇陛下みたいだ』と、私は思わず言った。
 父は農家の生まれで、「上昇志向を胸に抱いて師範学校給費生徒として帝国官吏の最末端につながった」と彼は「深夜の自画像」に記しています。続けて引用します。

 私の記憶に残っている父のイメージは、毎夜、夜が白むまでランプの灯の下で検定試験のための受験勉強に血走った目を光らせていた中年男である。 
 そしてもう一つ、深夜の学校の奉安殿の夜目にも白い桜の満開の下で、樹の幹につないだ朝鮮人学生を竹刀で掛け声とともに打ちすえていた父の姿である。寮の門限を破った生徒が『哀号!』と身もだえるたびに白い桜の花弁が降るように散るのだった。


 「雑民の魂」の後のページで引用されている「ゴキブリの歌」には、「私は一度、朝鮮人の学生が教師だった私の父親に、殴られるのを見たことがある」と書かれています。そして、さらに・・・

 彼は殴られた瞬間、思わず、哀号! と反射的に小さく叫び、そのことでまた前よりもいっそう激しく殴られたのだった。 
 『朝鮮語を使うな。アイゴーとはなんだ』


 父親は『足をひらけ。歯を食いしばれ。いいか』と命じて再び生徒を殴ると、学生はまた小さな声で哀号!と呟きます。

 『よし、そうか。そういうことか』  と、私の父は、かすかに笑いながらうなずいた。それから不意に唇を固く結んで、こんどはかなり力をこめた一撃を相手の頬にあたえた。朝鮮人の学生は、二、三歩たたらを踏んで姿勢を立てなおすと、またもや、哀号、と、泣き笑いのような妙な表情で言ったのだった。
 あの時の根くらべりような朝鮮人学生と私の父との一幕は、その後長く私の記憶の暗部に黒くしみついて残った。


 先の竹刀で打つ話と別のエピソードなのか、同じ原型が五木の頭の中で異なった形に再構成されていったのかわかりませんが(後者か?)、肝心なことはこの出来事の象徴的な意味と、それが五木の原体験として深く刻印されたということです。
 たとえば、次のような五木の言葉にもその一端が現れていると思います。

 (父親が師範学校の教師をしていた関係で、その教え子から北朝鮮へ招待されるが、それに対する五木の言葉)
 「私は行かなかった。行く資格はない。懐かしいといってはならん、という立場ですから。なぜ、そういう体験になったか、原因をさかのぼれば、植民者として君臨していたということでしょ」(太田昌国「「拉致」異論」より)
 ・・・というものでした。

 敗戦時平壌にいた五木(正確には松延)一家は、ソ連軍の侵入を受けます。本記事のタイトル「五木寛之の強烈な朝鮮原体験」の核心部分はそこにあるのですが、続きはまた今度。

※最近たまたま「積乱雲―梶山季之」という本の梶山季之の年譜を見ていたら、「京城市南大門国民学校。3年下に五木寛之がいた」とありました。
 先に書いた「韓国の片田舎」が京城でないことは明らかで、また敗戦時に五木一家がいたのは平壌ですから、いつ頃南大門国民学校に通っていたのかはインターネットで調べてもわかりません。

[2011年3月31日の付記] 「地図のない旅」中の「過去への旅」に、「私たち一家は、その村で2年あまりを過ごし、やがて京城へ移転した。私が義務教育を受ける年齢に達したからという事情もあったのかもしれない。その地方には、私が通うべき日本人小学校はなかった」とあります。

※秋山駿との対談(「国文学」昭和48年7月号)によると、「官舎で生まれて、親父が転勤するたびに官舎を転々として育ってきた」彼は「官舎の子」と自称し、次のように語っています。
 「京城で父親が南大門小学校の教師をしていた時に、その官舎の庭に梧桐の大きな木があった。
 ぼくは、その木の一つの枝が見晴らしが悪くて気に入らないので、のこぎりで切ってしまったのです。それを非常に叱られたことがある。つまり、この家の一木一草に至るまで、これはお国のものだ、と言われて。そうするとまず、住んでいる家屋や土地や庭に関して、愛着がないんですね」。


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