1つ前の記事で記したように、敗戦時五木寛之一家は平壌の飛行場近くにいました。
そしてソ連軍の侵入をもろに受けます。
それに続く「五木寛之の強烈な朝鮮原体験」の核心部分は、「雑民の魂」の文をそのまま引用します。
最初に侵入してきたソ連兵は、丸坊主の囚人兵で、ボロボロの服装で自動小銃を突きつけながら家捜しをした。五木の父は入浴中に銃を突きつけられ、素っ裸で手を頭にのせて庭へ出た。母は病気で寝ていたところ蒲団ごと庭へ放り出された。衣服から日用品に至るまで目ぼしいものを取りあげられて、家はポンと釘づけにされ、一瞬にして放り出されてしまった。その時のトラブルで母は死んだという。多分、少年の見てはならぬものを見たのであろう。
「私の母は敗戦後の外地の混乱の中で、死ななくともよい死に方をした」(「風に吹かれて」)と、五木はさりげなく書いているが、おそらくこの事件が、彼の心にもっとも深く突き刺さっているにちがいない。が、それ故にこそ、五木はその事件についてはほとんど沈黙を守っている。」
じつはこの事件について、「雑民の魂」が書かれた1976年から26年経った2002年に刊行された「運命の足音」で、五木寛之自身が初めて正面から書き記しています。私ヌルボは未読の本ですが、かねて(一方的に)おなじみの<コリアシネマ倶楽部>のサイトでテジョンさんが詳しく紹介していました。
「私は悪人である。12歳の夏から57年間、ずっとそう思いつづけてきた。」という一文から始まり、「このことを書いてからでないと死ねないと、長年、思いつづけてきた。これを最後に、しばらくこのような文章を書くことはないだろう。」とまで書いています。
「その夏、私は満十二歳だった。」以下、五木が初めてつづったこの事件の詳細は上記のサイトでご覧ください。
・・・そして今の五木寛之。
それから五十七年がすぎた。私はときどき夢のなかで、庭から父と私に抱きかかえられて居間へ運ばれた母親が、かすかに微笑して、私たちにこうつぶやくのをきくことがある。
「いいのよ」
私と父親とは、母の死以後、ずっと共犯者としてうしろめたい思いを抱きながら生きてきた。父が死ぬまで、彼とはおたがいに目をみつめあうことが一度もなかったように思う。
テジョンさんの文中に、五木と同じく敗戦後の冬を平壌で過ごしたという江藤淳夫人のことも引用されています。テジョンさんの感想も心に沁みます。
また、アマゾンのレビューに次のような一文がありました。
ソ連兵に殺された母親について初めて五木が語りだした。 「それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じている母親のゆかたの襟元をブーツの先でこじあけた。彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた」
「大河の一滴」や「他力」を読んで、私は五木寛之は自分のもっている闇を乗り越えたのだと思っていたが、それは間違いだったかもしれない。
母親の写真を送ってくれた未知の読者に「説明のしようのない理不尽な怒り」を感じるというのは尋常ではない。野坂昭如のように自分の戦争体験を表に表現できる人はまだ傷が浅いのかもしれない。五十数年間、心の中にこの体験を秘めて創作活動を続けてきた五木の傷の深さには声の出しようもない。五木のトラウマはいまだ癒されていない。
しかし、一方、それまで語れなかったことを「語りだした」ということは、癒しへの第一歩を踏み出したのかな、とも思ったりもする。
ひょっとすると、五木の今までの膨大な創作活動は、この事件を告白するまでの準備作業だったのか。
・・・最後の一文、ヌルボも共感します。この記事の題を「五木寛之の強烈な朝鮮原体験」とした所以もそこにあります。
ところで、滋賀県高月の<雨森芳洲庵を訪ねて>の後にこの記事を書いた理由なのですが、実は高月に3時間いた後、さらに舞鶴に足を伸ばして引揚記念館に行ったのです。そこでたまたま平壌から引き揚げてきたという90歳近い女性の話を聞いたのが頭に残っていたので・・・というわけです。
その件についてはまた別記事で・・・。
→<駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)>
そしてソ連軍の侵入をもろに受けます。
それに続く「五木寛之の強烈な朝鮮原体験」の核心部分は、「雑民の魂」の文をそのまま引用します。
最初に侵入してきたソ連兵は、丸坊主の囚人兵で、ボロボロの服装で自動小銃を突きつけながら家捜しをした。五木の父は入浴中に銃を突きつけられ、素っ裸で手を頭にのせて庭へ出た。母は病気で寝ていたところ蒲団ごと庭へ放り出された。衣服から日用品に至るまで目ぼしいものを取りあげられて、家はポンと釘づけにされ、一瞬にして放り出されてしまった。その時のトラブルで母は死んだという。多分、少年の見てはならぬものを見たのであろう。
「私の母は敗戦後の外地の混乱の中で、死ななくともよい死に方をした」(「風に吹かれて」)と、五木はさりげなく書いているが、おそらくこの事件が、彼の心にもっとも深く突き刺さっているにちがいない。が、それ故にこそ、五木はその事件についてはほとんど沈黙を守っている。」
じつはこの事件について、「雑民の魂」が書かれた1976年から26年経った2002年に刊行された「運命の足音」で、五木寛之自身が初めて正面から書き記しています。私ヌルボは未読の本ですが、かねて(一方的に)おなじみの<コリアシネマ倶楽部>のサイトでテジョンさんが詳しく紹介していました。
「私は悪人である。12歳の夏から57年間、ずっとそう思いつづけてきた。」という一文から始まり、「このことを書いてからでないと死ねないと、長年、思いつづけてきた。これを最後に、しばらくこのような文章を書くことはないだろう。」とまで書いています。
「その夏、私は満十二歳だった。」以下、五木が初めてつづったこの事件の詳細は上記のサイトでご覧ください。
・・・そして今の五木寛之。
それから五十七年がすぎた。私はときどき夢のなかで、庭から父と私に抱きかかえられて居間へ運ばれた母親が、かすかに微笑して、私たちにこうつぶやくのをきくことがある。
「いいのよ」
私と父親とは、母の死以後、ずっと共犯者としてうしろめたい思いを抱きながら生きてきた。父が死ぬまで、彼とはおたがいに目をみつめあうことが一度もなかったように思う。
テジョンさんの文中に、五木と同じく敗戦後の冬を平壌で過ごしたという江藤淳夫人のことも引用されています。テジョンさんの感想も心に沁みます。
また、アマゾンのレビューに次のような一文がありました。
ソ連兵に殺された母親について初めて五木が語りだした。 「それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じている母親のゆかたの襟元をブーツの先でこじあけた。彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた」
「大河の一滴」や「他力」を読んで、私は五木寛之は自分のもっている闇を乗り越えたのだと思っていたが、それは間違いだったかもしれない。
母親の写真を送ってくれた未知の読者に「説明のしようのない理不尽な怒り」を感じるというのは尋常ではない。野坂昭如のように自分の戦争体験を表に表現できる人はまだ傷が浅いのかもしれない。五十数年間、心の中にこの体験を秘めて創作活動を続けてきた五木の傷の深さには声の出しようもない。五木のトラウマはいまだ癒されていない。
しかし、一方、それまで語れなかったことを「語りだした」ということは、癒しへの第一歩を踏み出したのかな、とも思ったりもする。
ひょっとすると、五木の今までの膨大な創作活動は、この事件を告白するまでの準備作業だったのか。
・・・最後の一文、ヌルボも共感します。この記事の題を「五木寛之の強烈な朝鮮原体験」とした所以もそこにあります。
ところで、滋賀県高月の<雨森芳洲庵を訪ねて>の後にこの記事を書いた理由なのですが、実は高月に3時間いた後、さらに舞鶴に足を伸ばして引揚記念館に行ったのです。そこでたまたま平壌から引き揚げてきたという90歳近い女性の話を聞いたのが頭に残っていたので・・・というわけです。
その件についてはまた別記事で・・・。
→<駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)>
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