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田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その2)

2023-02-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』承元三年(1209)三月二十一日条は、

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大夫属入道持參鞠於御所。自京都到來之由申之。又去二日大柳殿御鞠記一紙進覽之。彼日。大輔房源性始參于御鞠云々。是左金吾將軍御時近士也。去建仁三年九月坐事之後所在京也。件御鞠衆。御所刑部卿〔宗長〕。 越後少將範茂 寧王 醫王 山柄 行景 源性等也云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma19b-03.htm

というもので、「大夫属入道」三善康信(善信)が御所に京都から送られてきた鞠と『大柳殿御鞠記』を持参し、実朝に見せたという話の中に「件御鞠衆」の一人として「医王」が登場しますが、これが藤原能茂ですね。
『尊卑分脈』の「文永五年七月十六日卒、歳六十四」から逆算すると能茂は元久二年(1205)生まれとなってしまいますが、その能茂が五歳で「御鞠衆」になれるはずはありません。
『尊卑分脈』には何らかの誤りがあることが窺われますが、その点は「二 『尊卑分脈』の問題」で論じられます。
さて、続きです。(p106以下)

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 承久三年(一二二一)、北面の武士として承久の乱にも加わり、破れて出家した。『承久記』によれば後鳥羽院は配流前に能茂に会うことを強く希望し、院は出家した能茂を見て自分も出家を決意した、と伝える。このように院と能茂の結びつきを強調するのは、後に述べるように、伝承の世界で能茂の存在が後鳥羽院と絡んで強く深く浸透していたことを思わせる。
 後鳥羽院の隠岐配流の随員については第五章第一節に述べるので、ここでは掲げないが、能茂は『愚管抄』、『吾妻鏡』、慈光寺本『承久記』に随行したことが記され、『尊卑分脈』にも「隠岐御所御共参」とある。『古今著聞集』巻五第二二二話からは、能茂の子友茂も隠岐にいたことが知られ、能茂・友茂は、後鳥羽院崩御までの十八年間、隠岐で後鳥羽院の側近く仕えたと考えられる。ちなみに能茂には、友茂のほかに、娘が一人いたことが知られている。この女子は、後述するが三浦光村の室となった女性であり、およそ承久年間前後の誕生と考えられるので、この女子を都に残してきたのであろう。
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いったん、ここで切ります。
「『承久記』によれば後鳥羽院は配流前に能茂に会うことを強く希望し、院は出家した能茂を見て自分も出家を決意した、と伝える」とありますが、これは慈光寺本だけの話ですね。
ま、それはともかく、私は「この女子は、後述するが三浦光村の室となった女性であり」を読んで、頭の中に電撃が走った、と言ったら些か大袈裟かもしれませんが、かなり吃驚しました。
というのは、暫く前から、私は後鳥羽院の周辺とは別のどこかで藤原能茂の名前に出会ったことがあるような気がして何とも落ち着かない気持ちでいたのですが、三浦光村の室と聞いて、ああそうか、と思いました。
宝治合戦で三浦が破れた後、『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月十四日条に、

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光村後家者。後鳥羽院北面醫王左衛門尉能茂法師女。當世無雙美人也。光村殊有愛念餘執。最期之時。互取替小袖改着之。其餘香相殘之由。于今悲歎咽嗚云々。同有赤子。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm

とあって、光村が妻と互いの小袖を取り替えたという印象的なエピソードがありますが、この妻が「後鳥羽院北面醫王左衛門尉能茂法師女」だった訳ですね。
そして、この関係が慈光寺本『承久記』にやたらと三浦氏関係の記事が多い理由ではないかと思ったのですが、更に些か不吉な連想も生じてきました。
ま、その点は「三 三浦氏との関わり」で述べることとして、続きです。(p107)

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 隠岐配流中の後鳥羽院にとって、能茂(西蓮)はどのような存在だったのだろうか。彼はおそらく隠岐の御所で後鳥羽院が最も信頼する近臣であったと思われる。また、実は後鳥羽院の落胤であるらしい氏久は、賀茂能久の子であるが西蓮の猶子であると後鳥羽院宸翰に記されているが、西蓮から氏久への書状からは、氏久を隠岐へ渡海させるべく院の手足となって奔走し、院の病気を心配し、院の旧臣たちにも気を配り、氏久の行動・振舞などにもあれこれ配慮する西蓮の姿が、具体的に浮び上るのである。
 延応元年(一三三九)二月二十二日、後鳥羽院は隠岐で崩御し、火葬ののち、能茂が院の遺骨を首にかけて隠岐より帰洛、水無瀬殿を経て、『百錬抄』によれば五月十六日に、大原の西林院御堂に安置したという(『百錬抄』『一代要記』『皇代暦』『増鏡』)。このように、能茂は、幼児より院の崩御に至るまで、院と密に関わり合い、特に晩年の院にとっては最も近い存在であったであろうことが知られるのである。
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『増鏡』では、「巻三 藤衣」の最後、後鳥羽院崩御の場面に、

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 この浦に住ませ給ひて十七年ばかりにやありけん、延応元年といふ二月廿二日六十にて隠れさせ給ひぬ。今一度都へ帰らんの御心ざし深かりしかど、遂に空しくてやみ給ひにし事、いとかたじけなく、あはれになさけなき世も、今さら心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人ずくなに心細き御有様、いとあはれになん。御骨をば能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける。さて大原の法花堂とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えせず。かの法花堂には修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿を渡されけり。今はの際までもたせ給ひける桐の御数珠なども、かしこにいまだ侍るこそ、あはれにかたじけなく、拝み奉るついでのありしか。始めは顕徳院と定め申されたりけれど、おはしましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞こえ直されけるとなん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9a384872074709b799233fc6d689975

とあって、「御骨をば能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける」という具合いに能茂の名前も明記されています。

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田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その1)

2023-02-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

ということで、慈光寺本での藤原能茂が非常に奇妙な存在であることは理解していただけたと思いますが、そもそも藤原能茂とは何者なのか。
少し検索してみて、早稲田大学教授・田渕句美子氏の『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)に能茂を扱った論文があることを知り、私もつい二日前に入手して一読してみたところ、同書の「第四章 藤原能茂と藤原秀茂」は私の予想を遥かに超えて充実した内容でした。

笠間叢書『中世初期歌人の研究』
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305103376/

この論文は、

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第一節 藤原能茂
 一 後鳥羽院との関係
 二 『尊卑分脈』の問題
 三 三浦氏との関わり
 四 伝承と霊託の世界へ
第二節 藤原秀茂とその子孫
 一 閲歴
 二 西園寺家の周辺
 三 秀能への敬愛
 四 子孫の繁栄
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と構成されていますが、先ずは第一節の冒頭から少し引用してみます。(p105以下)

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 藤原能茂(西蓮)は、勅撰歌人ではなく、家集もなく、今その作として伝えられている和歌は、慈光寺本『承久記』に見える「すず鴨の身とも我こそなりぬらめ波の上にて世をすごすかな」という一首のみにすぎない。この歌も能茂作とは必ずしも断定し難いであろう。後鳥羽院隠岐配流後も隠岐で院に仕えていたが、隠岐で編まれ初学の人も出詠した『遠島御歌合』に詠進していないから、おそらく和歌は苦手としていたのだろう。しかし、能茂の存在は、秀能や後鳥羽院を考える時に無視できぬものがあり、特に晩年の後鳥羽院との関わりは非常に深く、そして伝承の世界へも広がりをみせている。本節では能茂について述べておきたい。
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慈光寺本の作者が能茂ではないかと疑っていた私は、能茂が創作(偽造)した可能性が高い慈光寺本の和歌がどれも余りにレベルが低いので、ちょっと不安に思っていました。
というのは、元々下手な人が精いっぱい頑張って作ったものならば素直に受け取れるのですが、仮に上手な人が下手なフリをして作ったのであれば、そうした不自然な工作を試みた理由や背景について、相当考えなければならないからです。
しかし、この冒頭の一文で、能茂作とされている和歌は慈光寺本の「すず鴨の身とも我こそなりぬらめ波の上にて世をすごすかな」だけであり、能茂は『遠島御歌合』にすら詠進していないことを知り、本当にホッとしました。
隠岐で後鳥羽院はおよそ文化的とは言い難い環境に置かれており、もちろん才能のある歌人も僅少でしたから、後鳥羽院は仕方なく『遠島御歌合』には相当レベルの低い人も参加させていたのですが、能茂の和歌の才能がそのレベルにも達していないのであれば、慈光寺本の和歌作者として実に適格です。
ま、それはともかく、続きです。(p106)

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 一 後鳥羽院との関係

  能茂に初めて注目したのは、久保田淳氏「慈光寺本『承久記』とその周辺」である。『尊卑分脈』『系図纂要』によれば、秀能の猶子で、幼名伊王丸、実父は法眼道提、母は弥平左衛門尉定清女である。『明月記』嘉禄二年(一二二六)五月二十七日の条には「道継者能茂之父也」とあり、父の名にゆれがあるが、久保田氏の指摘があるように、『承元御鞠記』に再三「道誓」と記され、「此芸をたしなみ其名を顕す輩」として「行願寺別当法橋道誓」と、「医王丸<道誓子>」「隼人<道誓子> 法師」の三名の名が見える。行願寺は寛弘元年(一〇〇四)に行円が開いた寺であって、俗に革堂、或いは一条革堂、一条北辺堂とも称される。『百錬抄』によれば、元久元年(一二〇四)正月十八日と二月十二日、後鳥羽院が御幸しているが、『百錬抄』『一代要記』ほかによれば、承元三年(一二〇九)四月九日に、誓願寺とともに焼失し、仁治三年(一二四二)三月五日にも火災にあった。能茂の第二子道玄は、『系図纂要』によると行願寺の都維那になっているが、これは能茂の縁であろう。
 能茂は『後鳥羽院宸記』『明月記』『承久記』他に名が頻出しており、後鳥羽院に近侍していたことが知られる。久保田氏は前掲論文で、後鳥羽院の寵童の一人であったと推測しているが、その通りであろうと思われる。前掲『承元御鞠記』等を見ると、父道誓と共に鞠衆の一人として出仕しており、また『吾妻鏡』承元三年(一二〇九)三月二十一日の条、実朝に『大柳殿御鞠記』を進献したという記事の中に、御鞠衆の一人として医王の名が見えているので、やはり院側近の鞠衆の一人であったと考えられる。なお後鳥羽院と蹴鞠については、秋山喜代子氏の論に詳しい。
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いったん、ここで切ります。

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慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その7)

2023-02-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「三、作り替えられる辞世歌」では、斬首の替わりに早河での水死を選んだ「甲斐宰相中将」藤原範茂の辞世の歌、「遥ナル千尋ノ底ヘ入時ハアカデ別シツマゾコヒシキ」について、渡邉氏は「歌壇活動に参加できる程度の心得はあったと思われる」(p81)範茂が「流れの早い川を前にして「千尋の底」と詠むとは考えられない。おそらくこの歌は物語に合わせて、慈光寺本作者が作ったものであろう」(同)とされます。
そして、「いずれにせよ流布本や前田家本が載せる「思ひきや」の歌も、和歌に習熟した者が作ったとは考えられないという点では同じ」(同)であるものの、しかし、渡邊氏はこうした作者の行為を非難されている訳ではなく、「こうした例は、歌は物語に合わせて作られ、地の文が変れば作り替えられることがあったことを物語る。作り物語では当然のことなので、このような営為は自然であったろう」(同)とされます。
渡邉氏は慈光寺本が最初に成立したという立場なので、私は渡邉説に若干の意見を持っていますが、それは後で論ずることとし、第四節に入ります。(p81以下)

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  四、応答しない贈答歌

 登場人物の和歌が場面に合わせて作られたと思われるのは、臣下の歌に限らない。配所に着いた後鳥羽院が詠み、母である七条院に届けられたという次の歌も同様である。

   都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル

 都からの音信が途絶え、謫居に響くのは波の音ばかりであることを歎いた歌である。配所の隠岐で院が詠じた『遠島百首』に以下のような歌がある。

   浪間より沖の湊に入る舟の我ぞこがるるたえぬ思ひに    (七六)
   おきの海をひとりやきつるさよ千鳥なく音にまがふ磯の松風 (八五)
   われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波風心してふけ    (九七)

 これらの歌では、遥か彼方の都とつながる可能性のある、隠岐(「沖」の掛詞)の湊に入ってきた「舟」から望郷の念をかき立てられ(七六)、「磯の松風」の音に紛れて聞こえてくる、ひとりで夜に鳴く「千鳥」の声に耳を澄ませている(八五)。荒く吹く「波風」に穏やかに吹くよう呼びかける「われこそは」の歌(九七)は殊に著名で、『承久記』の後続諸本でも取り入れられている。慈光寺本で院が詠んだとする「都ヨリ」の歌には、以上のような歌の表現や心情との共通性を認めてよいだろう。
 しかし、下句の「沖ウツ波」という表現には、伝統的な和歌表現と齟齬が見られる。『後拾遺集』には恵慶の「松風も岸うつ波ももろともに昔にあらぬ音のするかな」(雑三・一〇〇〇)という述懐歌が見える。波が「打つ」のは、恵慶歌のように「岸」であるか、あるいは「岩」「渚」「浜」等であって、「沖ウツ波」という表現は破格だろう。伝統的表現を尊重しつつ歌を彫琢する後鳥羽院が、安易に用いるとは思えない表現なのである。
 この場面の不審はこれだけではない。この歌は、都にいる後鳥羽の母七条院に贈られ、「御返」が詠まれたとある。院の歌と七条院の歌の間には、隠岐に同行した「伊王左衛門」(能茂)の歌が挟まり、慈光寺本では七条院の返歌は二人に向けたもののように読める。しかし、現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない。よしんば返歌をしたとしても、二人に一首ずつ贈るのが贈答歌の基本である。そうした贈答歌の基本的な枠組みから、ここは外れている。その七条院の返歌を挙げてみよう。

  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

 「神風」「ミモスソ河」は伊勢神宮の表象である。ここで皇祖神を持ち出して、院が還京できるようにと祈る歌を詠むことは、特に問題がないようにも見える。しかし、院の贈歌が伊勢に触れているわけではなく、また、七条院歌は伊勢の神に奉納されるわけでもない。このような歌を返すのはやはり唐突だろう。
 さらに言えば、この歌は贈歌の後鳥羽の歎きにきちんと応答していない。後鳥羽が、都から音信がなく、繰り返される波音以外に訪れるもののない謫居の寂しさを詠んでいるのに対して、音信ができなかった弁明もせず、寂しさへの慰めの言葉もかけていない。まるで、独詠歌のように、院の帰京を神へと祈っているだけなのである。
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第四節はこれで終りです。
渡邉氏は「院の歌と七条院の歌の間には、隠岐に同行した「伊王左衛門」(能茂)の歌が挟まり、慈光寺本では七条院の返歌は二人に向けたもののように読める」とされますが、

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 (後鳥羽院)
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee67ada9eeeeca23f3d8d5485199ac5b

という具合いに、七条院の返歌は「此御歌ドモ」に対応しているのですから、「七条院の返歌は二人に向けたもの」としか読めません。
「現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない」にもかかわらず、慈光寺本には何故にこんな奇妙な贈答歌が載せられているのか。
また、慈光寺本の作者は「よしんば返歌をしたとしても、二人に一首ずつ贈るのが贈答歌の基本」であるのに「そうした贈答歌の基本的な枠組み」を知らないのか。
それとも、知ってはいても敢えて無視して独自の「枠組み」を創造しているのか。

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慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その6)

2023-02-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

鳥羽殿への移送と隠岐遷幸の場面、慈光寺本と流布本の内容を全て紹介しましたが、慈光寺本では藤原能茂が非常に目立っているのに対し、流布本ではその存在は全く無視されています。
果たして史実としてはどちらが正しいのか。
そもそも「医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ」という事実があったのか。
この点、今は手元に岩波古典文学大系本がないので樋口芳麻呂氏の『王朝の歌人10 後鳥羽院』(集英社、1985)からの孫引きですが、『愚管抄』巻二には、

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一院(後鳥羽院)遠流セラレ給フ、隠岐国。七月八日於鳥羽殿御出家、十三日御下向云々。但、ウルハシキヤウハナクテ令首途〔かどで〕給云々。御共ニハ俄〔にはか〕入道清範只一人、女房両三云々。即義茂〔よしもち〕法師(能茂とも書く。秀能の猶子。法名西蓮)参リカハリテ清範帰京云々。土御門院并〔ならびに〕新院(順徳院)・六条宮(雅成親王)・冷泉宮(頼仁親王)、皆被行流刑給云々。新院同月二十一日佐渡国、冷泉宮同二十五日備前国<小島>、六条宮同二十四日但馬国、土御門院ハ其比スギテ、同年閏十月土佐国ヘ又被流刑給。其後同四年四月改元、五月比阿波国ヘウツラセ給フ由聞コユ。三院、両宮皆遠国ニ流サレ給ヘドモ、ウルハシキ儀ハナシトゾ世ニ沙汰シケル也。
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とあり、隠岐へ同行したのは「俄〔にはか〕入道」藤原清範であって、能茂(西蓮)は遅れて隠岐に行き、能茂と交替する形で清範が帰京したようですね。
流布本には「殿上人、出羽前司重房・内蔵権頭清範、女房一人、伊賀局、聖一人、医師一人」とあって、必ずしも『愚管抄』の「御共ニハ俄〔にはか〕入道清範只一人、女房両三云々」と一致する訳ではありませんが、少なくとも能茂が後鳥羽院と同行しなかったことは間違いなさそうです。
さて、ここで久しぶりに渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)に戻ることとします。

渡邊裕美子氏「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/56caf9976eac24e7ca2c54afc81626e6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/539dde20f4869b0252b1c636692ec5b0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/440dee9893f138a3d2b407fc3e466abe

渡邉論文は、

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一、はじめに
二、『承久記』所収和歌の概要
三、作り替えられる辞世歌
四、応答しない贈答歌
五、順徳院の長歌
六、道家の返歌
七、配所の王の長歌の先蹤
八、長歌贈答が語るもの
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と構成されており、(その2)で「二、『承久記』所収和歌の概要」の途中まで紹介済みです。
参照の便宜のため、第二節の前半を再掲すると、

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 二、『承久記』所収和歌の概要

 慈光寺本の記事内容が、他の後続諸本と大きく異なることはよく知られている。収載される和歌についても同断で、一覧表を作成したのでそちらを見てほしい。 
 この一覧表から次の三点が指摘できる。第一に、慈光寺本は他の諸本に見られる、後鳥羽院の配流先への道行きの歌にまったく関心を示していない。全体的に見ても後鳥羽の歌は七条院との贈答一組だけで、歌人として知られた後鳥羽の歌に特別な視線を向けていない。逆に他の諸本は、後鳥羽の道行きや、都の人々との贈答に関心を寄せて、そこを増補していったと考えられる。第二に、慈光寺本の和歌は上皇配流後の贈答に集中し、しかも、それらは後続諸本以外には一切他出が知られない。慈光寺本が載せる和歌(漢詩)のうち他出が認められるのは、乱後に処刑された宗行歌と光親(他本では宗行作)の漢詩だけである。これらは先行する『六代勝事記』初め多くの書物に見え、広く流布していたと考えられ、後鳥羽・順徳の歌とは位相を異にする。第三に、宗行歌・光親漢詩に加えて同じく処刑された範茂の辞世歌の位置が諸本と異なる。慈光寺本では、内乱終結後の叙述は三上皇から公卿へと、「身分的に上から下へという順序」(6)で進むと指摘され、その叙述に含まれる和歌も、まず上皇、それから宗行・光親・範茂の順に記される。後続諸本が、日時の経過にしたがって、和歌を配しながら情感を込めて臣下の処刑を語り、さらに後鳥羽院の配所への道行きを語るのとは対照的である。
-------

とのことですが、「身分的に上から下へという順序」云々は久保田淳氏の新日本古典文学大系の「解説」からの引用です。
確かに慈光寺本では、

「院」(後鳥羽院)
「中院」(土御門院)
「新院」(順徳院)
「六条宮」
「冷泉宮」
「公卿・殿上人」(「按察中納言光親卿」以下、六人)
「刑部僧正」(長厳)
「次々ノ人々」(「与三左衛門」中原季時以下、武士・僧兵十一人)

という順番で語られて行くのですが、基本的に「身分的に上から下へという順序」だけに、筆頭の後鳥羽院の記事に、七条院と並んで「伊王左衛門」が登場するのは一層奇妙に思われます。
ま、それはともかく、渡邉論文の第二節の続きです。(p78以下)

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 このあたり、慈光寺本は、乱後、北条義時が新院(後高倉院)と新帝(後堀河天皇)を立て、後鳥羽院の隠岐配流と京方の人々の処遇を定めたことを語り、次いで院の出家、隠岐への出立と到着と、簡潔に矢継ぎ早に語っていく。この内乱を収束させるために京方が払った最大の代償は、三上皇の配流であろう。慈光寺本の叙述は、そこへ一気に一直線に進む。しかし、その先で焦点が当たっているのは後鳥羽院ではない。配流地の描写で最も目を引くのは、叙述の分量から言っても順徳院と道家の長歌問答なのである。
 さて、その慈光寺本の和歌の核心部分と言える配流地の王の歌について検討する前に、次節では物語後半の範茂の辞世の歌について考えておきたい。一覧表からわかるように、範茂の歌は流布本や前田家本にも収載されるが、慈光寺本とは歌が異なっている。このことは『承久記』の和歌の性格を考える上で、示唆を与えてくれると思われるからである。
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