それでは、慈光寺本の全体像を網羅的・具体的に把握するため、冒頭から少しずつ慈光寺本を読んで行くことにします。
今日は二月十五日ですが、承久の乱が承久三年(1221)、今から802年前の五月十五日に始まって六月十五日に終わったことに倣って、一ヵ月くらいで終えられたらいいな、と思っています。
なお、網羅的・具体的な把握とは数量的な把握でもあり、各々の記事の分量、全体の中におけるバランスも随時確認して行く予定です。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)では、上巻は298~332頁までの35頁、下巻は333~368頁までの36頁、合計71頁分あり、1頁は原則として15行です。
ただ、巻初・巻末に15行に満たないページが3頁あり(p298は12行、p332は9行、p333は12行)、またp323~324にかけて、例の義時追討の院宣とその読下し文が載っているので、読下しの部分は重複していますから、p324は実質6行です。
結局、上下二巻は全部で、
15×(71-4)+(12+9+12+6)=1044行
となります。
従って、10行で概ね1%の割合となります。
本当に厳密にやろうとすれば字数で計算する必要があるかもしれませんが、記事のバランスを考える上では行数で十分ですね。
ところで約一か月前、「慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その11)」では、
-------
慈光寺本の場合、岩波新日本古典文学大系では承久記上下全体が72ページ分(298-369p)なのに、伊賀光季関係の場面だけで12ページ分(312-323p)あり、全体の約17%です。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26d4f2cc7c60f4968b411b939102a3e5
と書きましたが、p369は「承久記下終」とあるだけなので全体は71頁です。
また、伊賀光季追討の場面は、行数で数えると163行なので、
163/1044≒0.156
となって、正しくは全体の約16%ですね。
それにしても異常な割合です。
また、「もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その1)─今後の方針」で、
-------
例えば慈光寺本には佐々木広綱の息子・勢多伽丸に関する膨大な記事があり、岩波新日本文学大系本では63行、4頁強を占めています。
戦後処理の中でも特に重要な後鳥羽・土御門・順徳・六条宮・冷泉宮の配流関係記事ですら、
後鳥羽院 55行
土御門院 4行
順徳院 44行
六条宮・冷泉宮(二人まとめて) 5行
であるのに、勢多伽丸関係記事は後鳥羽院の約15%増しということになります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bef1581e4af838417cc067d8247cfb42
と書いたように、下巻では勢多伽丸関係記事の分量の多さが気になりますが、こちらは63行(※)なので、
63/1044≒0.06
となり、全体の約6%です。
しかし、伊賀光季追討と比べても歴史的重要性が全くない話なので、何でこのような話を延々と語るのかがやはり謎ですね。
このように、慈光寺本の記事のバランスは、個々のエピソードの歴史的重要性に照らすと首をかしげたくなるものもありますが、逆に言えば、こうしたバランスの悪さが作者の個性を反映している訳です。
従って、藤原能茂説で全ての記事のバランスを説得力のある形で説明できるかどうか、も私の課題となります。
ということで、またまた前置きが長くなってしまいましたが、次の投稿から本文に入ります。
※追記(2023年7月1日)
岩波新日本古典文学大系では、
侍従殿・勢多伽丸(共通)…2行
侍従殿のみ…8行
勢多伽丸…53行
となっていて、合計で63行。