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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その5)─数量的分析

2023-02-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは、慈光寺本の全体像を網羅的・具体的に把握するため、冒頭から少しずつ慈光寺本を読んで行くことにします。
今日は二月十五日ですが、承久の乱が承久三年(1221)、今から802年前の五月十五日に始まって六月十五日に終わったことに倣って、一ヵ月くらいで終えられたらいいな、と思っています。
なお、網羅的・具体的な把握とは数量的な把握でもあり、各々の記事の分量、全体の中におけるバランスも随時確認して行く予定です。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)では、上巻は298~332頁までの35頁、下巻は333~368頁までの36頁、合計71頁分あり、1頁は原則として15行です。
ただ、巻初・巻末に15行に満たないページが3頁あり(p298は12行、p332は9行、p333は12行)、またp323~324にかけて、例の義時追討の院宣とその読下し文が載っているので、読下しの部分は重複していますから、p324は実質6行です。
結局、上下二巻は全部で、

 15×(71-4)+(12+9+12+6)=1044行

となります。
従って、10行で概ね1%の割合となります。
本当に厳密にやろうとすれば字数で計算する必要があるかもしれませんが、記事のバランスを考える上では行数で十分ですね。
ところで約一か月前、「慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その11)」では、

-------
慈光寺本の場合、岩波新日本古典文学大系では承久記上下全体が72ページ分(298-369p)なのに、伊賀光季関係の場面だけで12ページ分(312-323p)あり、全体の約17%です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26d4f2cc7c60f4968b411b939102a3e5

と書きましたが、p369は「承久記下終」とあるだけなので全体は71頁です。
また、伊賀光季追討の場面は、行数で数えると163行なので、

163/1044≒0.156

となって、正しくは全体の約16%ですね。
それにしても異常な割合です。
また、「もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その1)─今後の方針」で、

-------
例えば慈光寺本には佐々木広綱の息子・勢多伽丸に関する膨大な記事があり、岩波新日本文学大系本では63行、4頁強を占めています。
戦後処理の中でも特に重要な後鳥羽・土御門・順徳・六条宮・冷泉宮の配流関係記事ですら、

後鳥羽院 55行
土御門院 4行
順徳院  44行
六条宮・冷泉宮(二人まとめて) 5行

であるのに、勢多伽丸関係記事は後鳥羽院の約15%増しということになります。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bef1581e4af838417cc067d8247cfb42

と書いたように、下巻では勢多伽丸関係記事の分量の多さが気になりますが、こちらは63行(※)なので、

63/1044≒0.06

となり、全体の約6%です。
しかし、伊賀光季追討と比べても歴史的重要性が全くない話なので、何でこのような話を延々と語るのかがやはり謎ですね。
このように、慈光寺本の記事のバランスは、個々のエピソードの歴史的重要性に照らすと首をかしげたくなるものもありますが、逆に言えば、こうしたバランスの悪さが作者の個性を反映している訳です。
従って、藤原能茂説で全ての記事のバランスを説得力のある形で説明できるかどうか、も私の課題となります。
ということで、またまた前置きが長くなってしまいましたが、次の投稿から本文に入ります。

※追記(2023年7月1日)
 岩波新日本古典文学大系では、
  侍従殿・勢多伽丸(共通)…2行
  侍従殿のみ…8行
  勢多伽丸…53行
となっていて、合計で63行。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その4)─宇治川合戦の不在

2023-02-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは、

(1)慈光寺本の作者は藤原能茂
(2)能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村
(3)目的は光村に承久の乱の「真相」を伝え、「正しい歴史観」を持ってもらうこと

という仮説に基づき、多くの歴史研究者のように慈光寺本を自説に都合の良い部分だけ「つまみ食い」するのではなく、その全体像を網羅的・具体的に把握して、この仮説が成り立つかを検証して行きたいと思います。
その際には、視点を宝治合戦前の光村に置き、光村にとって慈光寺本がどのように見えたかを想像して行くこととします。
私としては、慈光寺本の描く承久の乱に際しての父子相克・兄弟相克が、光村にとって非常に生々しいものと思えたのではないかとの見通しを持っています。
また、慈光寺本だけでなく、流布本との比較も網羅的・具体的に行います。
国文学界の多数説とは異なり、私は慈光寺本が「最古態本」ではなく、むしろ流布本の「原型」(といっても現在の流布本から、「後鳥羽院」「順徳院」といった諡号を取り除いた程度のもの)が「最古態本」だと想定しています。
北条義時を大悪人と描く慈光寺本と比較すると、流布本は遥かに穏健で常識的な歴史観に基づいており、幕府要人にも説得的で、1230年代に公表されたとしても何の問題も生じなかったはずです。
そうした穏健な歴史物語に対し、独自の歴史観に基づき、これが承久の乱の「真相」だと主張したのが慈光寺本だろう、というのが私の見通しです。
流布本の作者にとってみると、慈光寺本は基本的な歴史観が特異で、歴史的事象を分析する姿勢が歪んでいるために、執筆の参考にはならず、一から全て書き直さなければならないような作品だった、としか思えません。
逆に、慈光寺本の作者にとっては、平凡な流布本の原型は参考資料として十分に役に立ち、そこから自分の歴史観にそぐわないものを削除し、自分独自の見解を付加すれば作業は容易です。
そのあたりも、慈光寺本と流布本の記事を具体的に比較した上で、流布本が慈光寺本を参考にしたのでなく、慈光寺本が流布本を参考にしたのだ、つまり流布本の「原型」が「最古態本」なのだ、ということを論証してみたいと思います。
ところで、慈光寺本と流布本を比較すると、慈光寺本には勝敗を決する戦いとしては一番重要だった宇治川合戦が存在しない、という問題があります。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

存在しないのだから記事の比較のしようがありませんが、何故に慈光寺本には宇治川合戦が存在しないのか。
この点に関しては、野口実氏が先行研究として重視する杉山次子氏は、もともと慈光寺本には宇治川合戦記事が存在したのだが、それがいつしか「欠落」したのだ、と言われています。
ただ、慈光寺本を通読する限り、特に記事の「欠落」を思わせるような部分はなく、ストーリーの流れはそれなりに自然です。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/718d04b83821cfc68496cbf7d0dcc487

実は、慈光寺本の作者が藤原能茂で、能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村だと考えると、この問題は極めて簡単です。
というのは、光村は承久の乱に参加しているので、自らは宇治川合戦に直接関与していないものの、兄・泰村が宇治川合戦で奮戦しており、宇治川合戦の経緯については能茂以上に熟知しています。
従って、能茂は宇治川合戦について書く必要が全くなかった訳ですね。
流布本には光村の名は一箇所だけに登場します。
即ち、

-------
 武蔵守、供御瀬を下りに宇治橋へ被向けるが、其夜は岩橋に陣を取。足利武蔵前司義氏・三浦駿河守義村、是等は「遠く向候へば」とて、暇〔いとま〕申て打通る。義氏は宇治の手に向んずれ共、栗籠〔くりこ〕山に陣を取。駿河次郎、同陣を双べ取たりけるが、父駿河守に申けるは、「御供仕べう候へ共、権大夫殿の御前にて、『武蔵守殿御供仕候はん』と申候へ(ば)、暇給りて留らんずる」と申。駿河守、「如何に親の供をせじと云ふぞ」。駿河次郎、「さん候。尤〔もつとも〕泰村もさこそ存候へども、大夫殿の御前にて申て候事の空事〔そらごと〕に成候はんずるは、家の為〔ため〕身の為悪く候なん。御供には三郎光村も候へば、心安存候」と申ければ、「廷〔さて〕は力不及」とて、高所に打上て、駿河次郎を招て、「軍には兎〔と〕こそあれ、角〔かく〕こそすれ。若党共、余はやりて過〔あや〕まちすな。河端へは兎向へ、角向へ」など能〔よく〕々教へて、郎等五十人分付て、被通けり。
-------

ということで(松林靖明校注『新訂承久記』、p104以下)、「駿河次郎」泰村は父・「三浦駿河守義村」と別行動をしたいと申し出ます。
義村からその理由を問われた泰村は、「権大夫殿」北条義時の御前で「武蔵守殿(泰時)と一緒に戦います」と誓ったので、その誓を破る訳には行かない、という理由に添えて、「御供には三郎光村も候へば、心安存候」と言います。
つまり、「三郎光村」は父・義村に同行した訳ですね。
この後、「桓武天皇より十三代の苗裔、相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」(p105)は、「足利武蔵前司義氏」と功を競って、泰時の命令がないにもかかわらず宇治橋での戦闘を始めてしまいます。
結果的にはこれは失敗だったのですが、泰村の活躍は相当な分量で流布本に描かれています。
他方、主戦場となった宇治川合戦に加わらなかった「三郎光村」は特に活躍する場もなく、流布本には名前だけがチラッと出ただけで終わってしまいます。
ということで、宇治川合戦を描くと泰村の活躍だけが目立ち、光村にしてみれば良い気分ではないでしょうから、能茂にとっては書く必要がなかったばかりか、書かない方が賢明だったでしょうね。

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