学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「御賀次第」の作者・花山院家教

2019-04-18 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月18日(木)12時01分22秒

小川論文、「三 公家日記から見た『とはずがたり』」の「(1)御賀次第とその作者」も興味深い内容です。
グーグルブックスでは全部は読めませんが、とりあえず読める部分だけ引用してみると、

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(1)御賀次第とその作者

 二月三十日、御賀の第一日、北山殿に参仕した宗冬は「先見御所御装束儀」として、寝殿の室礼について記している。この室礼については、『実冬卿記』や『とはずがたり』にも同じように記されているところである。三者を比較した表Ⅰを参照されたい。
 波線部に示したような一致から、『とはずがたり』と『実冬卿記』との間には、たんに同一の儀式の記録として表現が近似したのではなくて、前者が後者を参考にして執筆されたとする「直接的関係」を認める説が有力である。しかし、ただちに依拠関係があったとするのは早計であろう。『宗冬卿記』を見ると、道場の室礼について傍線部のように、『とはずがたり』以上に、『実冬卿記』との文章との一致が見られる。全く同文といってよいほどである。
 だからといって『宗冬卿記』が『実冬卿記』を参照した可能性は殆どなく、両者が同じ資料に依拠していると考えるべきである。すると『宗冬卿記』の記事の最後に、「次第」は花山院家教が作進したものであり、詳しくはそちらに見える、という旨が示されているのが注意される。「次第」とは言うまでもなく、朝儀や典礼の進行を定めたもので、「次…。次…。」という形で記されていることからその名がある。室礼にしても指定があるのが普通である。有職の公卿があらかじめ参列者に配っておくものであった。宗冬も実冬も御賀次第を入手しており、それに基づいて記述したのである。同文と思えるのも家教作の次第にそのまま拠ったからである。その事情は『とはずがたり』の作者にも同様であったと思われる。
 もう一つ、七僧法会の始め、楽人・舞人が楽を奏するところを、表Ⅱに示して比較してみる。ここは『とはずがたり』が『実躬卿記』によったと考えられている部分であるが、それとまったく同文の記事が『宗冬卿記』にも現れる。儀式の進行については、もちろん実際に見聞した内
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ということですが、「「次第」は花山院家教が作進したものであり、詳しくはそちらに見える、という旨が示されている」に対応する部分を翻刻で見ると、「委旨見次第、<花山院中納言作□>」(p261、上段、左から5行目)とあります。
この花山院中納言・藤原家教が作進した「次第」を滋野井実冬・正親町三条実躬・中御門宗冬、そして後深草院二条もそれぞれ別個独立に所持しており、これを基礎に四人がそれぞれの記憶や他の資料も加味して別個独立に執筆した、ということになる訳ですね。

花山院家教(1261-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E6%95%99

私はこの花山院家教という人物に少し興味があって、それはこの人が『増鏡』「巻十一 さしぐし」において、西園寺実兼女(後の永福門院)が伏見天皇に女御として入内する場面に、些か奇妙な形で登場するからです。

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 出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家の女。三の左に大納言の君、室町の宰相中将公重の女、右に新大納言、同じ三位兼行とかやの女、四の左、宰相の君、坊門三位基輔の女、右、治部卿兼倫の三位の女なり。それより下は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司、なにくれがむすめどもなるべし。童・下仕へ・御雑仕・はしたものに至るまで、髪かたちめやすく、親うち具し、少しもかたほなるなくととのへられたり。
 その暮れつ方、頭中将為兼朝臣、御消息もて参れり。内の上みづから遊ばしけり。

  雲の上に千代をめぐらんはじめとて今日の日かげもかくや久しき

 紅の薄様、同じ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿、「包むやう知らず」とかやのたまひけるとて、花山に心えたると聞かせ給ひければ、遣して包ませられけるとぞ承りしと語る。またこの具したる女、「いつぞやは御使ひに実教の中将とこそは語り給ひしか」といふ。

http://web.archive.org/web/20150918011114/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-nyogojudai-1.htm

この場面については旧サイトであれこれ考えたことがありますが、今でも基本的にはその考え方を維持できるものと思っています。

http://web.archive.org/web/20150918011429/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/masu-nijosakushasetu.htm

ま、それはともかく、この女御入内の場面でも花山院家教は有職故実に非常に詳しい人物であることが前提となっていて、家教が「北山准后九十賀」の「次第」を作進したというのももっともな感じがします。
あるいは家教は女御入内の儀礼についても「次第」を作成していたのかもしれないですね。
また、家教は早歌の作者に比定されていて、その方面での後深草院二条との交流もあったのではないかと私は推測しています。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2232c8d85546a8eedeb2b26d79a0d1e7
「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
早歌の作者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f49010df5521cc5aa7d50c242cec62c6
「撰要目録」を読む。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f

コメント
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