投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月 4日(木)11時03分54秒
『とはずがたり』に北山准后が登場する五番目が巻三の最後、「北山准后九十賀」の場面です。
『とはずがたり』には「粥杖事件」のような明るいコメディも存在しますが、巻二の後半から巻三にかけて、二条と「近衛の大殿」「有明の月」、そして亀山院をめぐるドロドロの愛欲絵巻が続き、特に二条が「有明の月」の第二子を妊娠した直後に「有明の月」が妄執の果てに死んでしまう巻三は全体としてかなり陰気なストーリー展開になっています。
そして、二条は東二条院から御所を退出するように要求され、後深草院ももはや二条を守ってくれず、泣く泣く御所を退いた二条は石清水八幡に参詣したり、祇園社に祈願のために籠もったりしているところに、大宮院から「北山准后九十賀」に参加するようにとの手紙をもらいます。
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またの年の正月の末に、大宮の院より文あり。 「准后の九十の御賀の事、この春思ひいそぐ。里住みもはるかになりぬるを、何か苦しからん。打出での人数にと思ふ。准后の御方に候へ」と仰せあり。
「さるべき御ことにては候へども、御所さまあしざまなる御けしきにて、里住みし候ふに、何のうれしさにか打出でのみぎりに参り侍るべき」 と申さるるに、
「すべて苦しかるまじきうへ、准后の御ことは、ことさら幼くより故大納言の典侍といひ、その身といひ、他に異ならざりしことなれば、かかる一期の御大事見沙汰せん、何かは」
など御自らさまざま承るを、さのみ申すもことありがほなれば、参るべきよし申しぬ。
籠りの日数は四百日にあまるを、帰り参らんほどは代官を候はせて、西園寺の承りにて、車など賜はせたれば、いまは山がつになり果てたる心地して、晴々しさもそぞろはしながら、紅梅の三つ衣に桜萌黄の薄衣重ねて、参りてみれば、思ひつるもしるく晴々しげなり。
http://web.archive.org/web/20100911053926/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-25-kitayamajugo.htm
「准后の御ことは、ことさら幼くより故大納言の典侍といひ、その身といひ、他に異ならざりしことなれば」ということで、母親とのセットで二条の北山准后との関係が改めて強調されます。
そして東二条院との軋轢を熟知している大宮院は「准后の御方に候へ」ということで二条を招いたのだそうですが、この位置付けは後で変更されます。
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その日になりぬれば、御所のしつらひ、南面の母屋三間、中にあたりて、北の御簾に添へて仏台を立てて、釈迦如来の像一幅掛けらる。その前に香華の机を立つ。左右に灯台を立てたり。前に講座をおく。その南に礼盤あり。同じ間の南の簀子に机を立てて、その上に御経筥二合おかる。寿命経・法華経入れらる。御願文、草茂範、清書関白殿と聞えしやらん。母屋の柱ごとに幡・華鬘を掛けらる。 母屋の西の一の間に、御簾の中に、繧繝二帖の上に唐錦の褥を敷きて、内の御座とす。同じ御座の北に、大文二帖を敷きて一院の御座、二の間に同じ畳を敷きて新院の御座、その東の間に屏風を立てて、大宮の院の御座、南面の御簾に几帳のかたびら出だして、一院の女房候ふところをよそに見侍りし、あはれ少からず。同じき西の廂に屏風を立てて、繧繝二帖敷きて、その上に東京の錦の褥を敷きて、准后の御座なり。
かの准后と聞ゆるは、西園寺の太政大臣実氏公の家、大宮院・東二条院御母、一院・新院御祖母、内・春宮御曾祖母なれば、世をこぞりてもてなし奉るもことわりなり。俗姓は鷲尾の大納言隆房の孫、隆衡の卿の女なれば、母方ははなれぬ縁におはしますうへ、ことさら幼くより、母にて侍りし者もこれにて生ひ立ち、わが身もその名残変らざりしかば、召し出ださるるに、褻なりにてはいかがとて、大宮院御沙汰にて、紫のにほひにて准后の御方に候ふべきかと定めありしを、なほいかがと思し召しけん、大宮の御方に候ふべきとて、紅梅のにほひ、まさりたる単、紅の打衣、赤色の唐衣、大宮院の女房はみな侍りしに、西園寺の沙汰にて、うゑ紅梅の梅襲八、濃き単、裏山吹の表着、青色の唐衣、紅の打衣、彩み物置きなど、心殊にしたるをぞ賜はりて候ひしかども、さやは思ひしと、よろづあぢきなきほどにぞ侍りし。
http://web.archive.org/web/20061006205733/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-26-mikado.htm
「褻なりにてはいかがとて、大宮院御沙汰にて、紫のにほひにて准后の御方に候ふべきかと定めありしを、なほいかがと思し召しけん、大宮の御方に候ふべきとて(普通の衣裳ではいかがかというので、大宮院の御指図で、紫匂いの衣裳で准后の側に祗候するのがよかろうかとお決めになったのを、なおいかがかとお思いになったのであろう、大宮院の方に祗候せよということで)」ということで、当初は北山准后の近くに侍することが予定されていたにもかかわらず、二条は大宮院の側にいるように変更されてしまいます。
その理由は明示されていませんが、東二条院から大宮院に対し、二条を北山准后の近くに置くなという要求があったのではないかと推測させる記述が後で出てきます。
『とはずがたり』に北山准后が登場する五番目が巻三の最後、「北山准后九十賀」の場面です。
『とはずがたり』には「粥杖事件」のような明るいコメディも存在しますが、巻二の後半から巻三にかけて、二条と「近衛の大殿」「有明の月」、そして亀山院をめぐるドロドロの愛欲絵巻が続き、特に二条が「有明の月」の第二子を妊娠した直後に「有明の月」が妄執の果てに死んでしまう巻三は全体としてかなり陰気なストーリー展開になっています。
そして、二条は東二条院から御所を退出するように要求され、後深草院ももはや二条を守ってくれず、泣く泣く御所を退いた二条は石清水八幡に参詣したり、祇園社に祈願のために籠もったりしているところに、大宮院から「北山准后九十賀」に参加するようにとの手紙をもらいます。
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またの年の正月の末に、大宮の院より文あり。 「准后の九十の御賀の事、この春思ひいそぐ。里住みもはるかになりぬるを、何か苦しからん。打出での人数にと思ふ。准后の御方に候へ」と仰せあり。
「さるべき御ことにては候へども、御所さまあしざまなる御けしきにて、里住みし候ふに、何のうれしさにか打出でのみぎりに参り侍るべき」 と申さるるに、
「すべて苦しかるまじきうへ、准后の御ことは、ことさら幼くより故大納言の典侍といひ、その身といひ、他に異ならざりしことなれば、かかる一期の御大事見沙汰せん、何かは」
など御自らさまざま承るを、さのみ申すもことありがほなれば、参るべきよし申しぬ。
籠りの日数は四百日にあまるを、帰り参らんほどは代官を候はせて、西園寺の承りにて、車など賜はせたれば、いまは山がつになり果てたる心地して、晴々しさもそぞろはしながら、紅梅の三つ衣に桜萌黄の薄衣重ねて、参りてみれば、思ひつるもしるく晴々しげなり。
http://web.archive.org/web/20100911053926/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-25-kitayamajugo.htm
「准后の御ことは、ことさら幼くより故大納言の典侍といひ、その身といひ、他に異ならざりしことなれば」ということで、母親とのセットで二条の北山准后との関係が改めて強調されます。
そして東二条院との軋轢を熟知している大宮院は「准后の御方に候へ」ということで二条を招いたのだそうですが、この位置付けは後で変更されます。
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その日になりぬれば、御所のしつらひ、南面の母屋三間、中にあたりて、北の御簾に添へて仏台を立てて、釈迦如来の像一幅掛けらる。その前に香華の机を立つ。左右に灯台を立てたり。前に講座をおく。その南に礼盤あり。同じ間の南の簀子に机を立てて、その上に御経筥二合おかる。寿命経・法華経入れらる。御願文、草茂範、清書関白殿と聞えしやらん。母屋の柱ごとに幡・華鬘を掛けらる。 母屋の西の一の間に、御簾の中に、繧繝二帖の上に唐錦の褥を敷きて、内の御座とす。同じ御座の北に、大文二帖を敷きて一院の御座、二の間に同じ畳を敷きて新院の御座、その東の間に屏風を立てて、大宮の院の御座、南面の御簾に几帳のかたびら出だして、一院の女房候ふところをよそに見侍りし、あはれ少からず。同じき西の廂に屏風を立てて、繧繝二帖敷きて、その上に東京の錦の褥を敷きて、准后の御座なり。
かの准后と聞ゆるは、西園寺の太政大臣実氏公の家、大宮院・東二条院御母、一院・新院御祖母、内・春宮御曾祖母なれば、世をこぞりてもてなし奉るもことわりなり。俗姓は鷲尾の大納言隆房の孫、隆衡の卿の女なれば、母方ははなれぬ縁におはしますうへ、ことさら幼くより、母にて侍りし者もこれにて生ひ立ち、わが身もその名残変らざりしかば、召し出ださるるに、褻なりにてはいかがとて、大宮院御沙汰にて、紫のにほひにて准后の御方に候ふべきかと定めありしを、なほいかがと思し召しけん、大宮の御方に候ふべきとて、紅梅のにほひ、まさりたる単、紅の打衣、赤色の唐衣、大宮院の女房はみな侍りしに、西園寺の沙汰にて、うゑ紅梅の梅襲八、濃き単、裏山吹の表着、青色の唐衣、紅の打衣、彩み物置きなど、心殊にしたるをぞ賜はりて候ひしかども、さやは思ひしと、よろづあぢきなきほどにぞ侍りし。
http://web.archive.org/web/20061006205733/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-26-mikado.htm
「褻なりにてはいかがとて、大宮院御沙汰にて、紫のにほひにて准后の御方に候ふべきかと定めありしを、なほいかがと思し召しけん、大宮の御方に候ふべきとて(普通の衣裳ではいかがかというので、大宮院の御指図で、紫匂いの衣裳で准后の側に祗候するのがよかろうかとお決めになったのを、なおいかがかとお思いになったのであろう、大宮院の方に祗候せよということで)」ということで、当初は北山准后の近くに侍することが予定されていたにもかかわらず、二条は大宮院の側にいるように変更されてしまいます。
その理由は明示されていませんが、東二条院から大宮院に対し、二条を北山准后の近くに置くなという要求があったのではないかと推測させる記述が後で出てきます。