投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月21日(日)11時51分16秒
>筆綾丸さん
少しレスが遅れてしまいましたが、『とはずがたり』の記述を疑い出したらキリがないのはおっしゃる通りで、どこで『とはずがたり』のリアルと虚構の区別をつけるべきか、という一般論に拡げて少し考えていました。
船上連歌の場面に限れば、私が小川論文で「両院無御乗船」を知った後も、この連歌全部を虚構と切り捨てることができず、それなりのリアルさを感じるのは、ここに「弘安源氏論議」の源具顕が出てくるからです。
この人は「北山准后九十賀」の二年後、伏見天皇即位の直前に病死してしまっており、春宮時代の伏見天皇周辺での文芸活動以外には特に事蹟はなく、また文芸における事蹟も没後七百年余りを経て岩佐美代子氏が「発見」するまでは歴史の中に埋もれていた人です。
こうした地味な人物をきちんと描いていることに私は『とはずがたり』、そして『とはずがたり』を受けた『増鏡』の記述にある程度のリアルさを感じるのですが、具顕を語り出すと長くなるので、別投稿で書こうと思います。
源具顕(?~1287)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tomoaki.html
>「二千里の外に来にけるにや」など仰せありて
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釣り殿遠く漕ぎ出でて見れば、旧苔年経たる松の枝さし交したる有様、庭の池水言ふべくもあらず、漫々たる海の上に漕ぎ出でたらむ心地して、「二千里外の外に来にけるにや」など仰せありて、新院御歌、
雲の波煙の波を分けてけり
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6356a56ef4f8aa264cfa61871b26abe
私も中国の古典の話になると、とたんに弱気になってしまうのですが、久保田淳氏の注記によれば、「漫々たる海の上」(ひろびろした海上)は『白氏文集』新楽府「海漫々」を念頭に置いたもので、更に「雲の波煙の波を分けてけり」は「海漫々」に「雲濤煙浪最モ深キ処 人ハ伝フ中ニ三ノ神山有リト」とあるのによるそうで(p420)、この文章の流れの中では「二千里外の外」もそれほど不吉な連想を誘う訳でもないように感じます。
「海漫々」は今まで読んだこともありませんでしたが、徐福伝説に関係するものなのですね。
『源平盛衰記』巻二十八「経正竹生島詣 並仙童琵琶事」の中にも見えるそうなので、あとで確認してみます。
http://ikaebitakosuika.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/---1561.html
https://plaza.rakuten.co.jp/eiryu/diary/201206280000/
>「変態繽粉たり」
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兼行、「山又山」とうち出だしたるに、「変態繽紛たり」と両院の付けたまひしかば、水の下にも耳驚く物やとまでおぼえはべりし。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/775c237ff40bb0006550e62e2160b2fa
久保田氏の注記(p420)によると、春宮(伏見)の近臣で「弘安源氏論議」の参加者の一人でもある楊梅兼行(1254-1317)が朗詠したという「山又山」は『和漢朗詠集』下・山水、大江澄明の「山復タ山 何の工カ青厳ノ形ヲ削リ成セリ 水復タ水 誰ガ家ニカ碧澗ノ色ヲ染メ出ダセル」によるものだそうです。
そして、これを受けて後深草・亀山院が付けたという「変態繽粉たり」は『菅家文章』巻二、「変態繽粉タリ、神ナリマタ神ナリ。新声婉転ス、夢カ夢ニ非ザルカ」(舞う姿は変化に富んですばらしく、まるで神技である。歌う声が美しく転ずる有様は夢かうつつか区別しがたい)によるもので、菅原道真作とはいえ、これ自体には不吉な要素はなく、また、「山又山」とのつながりもよさそうです。
そもそもこれは「両院」が一緒に謡い出したとのことなので、二人の創作ではなく、既存の朗詠のパターンのようですね。
「変態繽粉」で検索したら「秋の色種」という長唄が出てきました。
秋の色種
http://www.tetsukuro.net/nagautaed.php?q=1
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined24.1.html#paragraph1.1
九十賀の舟楽は、『源氏物語』「胡蝶巻」の舟楽を踏まえているのかもしれませんが、妄想ながら、よくわからないことを記してみます。
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「二千里の外の心地こそすれ」などのたまひて、新院、雲の波煙のなみをわけてけり(『増鏡』)
「二千里の外に来にけるにや」など仰せありて、新院御歌、雲の波煙の波をわけてけり(『とはずがたり』
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ですが、引き歌の理由がわかりません。『和漢朗詠集』(講談社学術文庫189頁)に、
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『白氏文集』「八月十五夜、禁中ニテ月ニ対フ」。元稹と白楽天の交友は有名であるが、本句は、左遷されて遠く江州に日を送っている親友の心を思いやって詠んだものである。『源氏物語』須磨巻に「今夜は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊びこひしく、所々眺め給ふらんかしと思ひやり給ふにつけても、月のかほみまもられ給ふ、二千里外故人心と誦し給へる、例の涙も留められず」とあるほか、(後略)
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とあるように、仲秋の名月に託して左遷された友の心を詠んだものだから、晩春の賀宴で朗詠するようなものではなく、亀山院はなぜこんな不吉な引き歌をあえてしたのか、という疑問が湧いてきます。
九十賀は弘安八年(1285)の二月三十~三月二日で、『増鏡』では、すぐあとに、後宇多天皇の譲位と春宮の践祚(弘安十年十月)、つまり、「・・・いとあへなくうつろひぬる世を、すげなく新院は思さるべし。春宮位につき給ひぬれば、天下本院におしうつりぬ。世の中おしわかれて・・・」と続くので、白楽天の引用は、まもなく治天の君ではなくなるという亀山院の胸中をひそやかに(伊語で云えば sotto voce )書き込んだもの、と読めるような気もします。そう考えると、直前の、
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「変態繽粉たり」と両院あそばしたるに、水の底もあやしきまで、身の毛たちぬべく聞ゆ。(『増鏡』)
「変態繽粉たり」と両院の付け給ひしかば、水の下にも耳おどろくものやとまで覚え侍りし。(『とはずがたり』
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という、おどろおどろしく不気味な描写には、大宰府で憤死した道真の詩を、両院揃って愚かにも吟じたがゆえに水底の龍王の怒りを買い、皇統の分裂をいよいよ決定的にしてしまったのだ、というような意味が、やはり sotto voce で込められていて、さらには、この年(弘安八年)の十一月、鎌倉で起きた血みどろの権力闘争(霜月騒動)は、覚醒した水底の妖しい変化の仕業ではあるまいか・・・などと妄想すると、十三世紀末の出来事がグッと身近になってきますね。
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