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船上連歌の異常な内容(その1)

2019-04-13 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月13日(土)21時46分27秒

ついで筆綾丸さんが既に言及されている船上の連歌の場面になります。(久保田淳『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』p420以下)

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 釣り殿遠く漕ぎ出でて見れば、旧苔年経たる松の枝さし交したる有様、庭の池水言ふべくもあらず、漫々たる海の上に漕ぎ出でたらむ心地して、「二千里外の外に来にけるにや」など仰せありて、新院御歌、
 「雲の波煙の波を分けてけり
管絃にこそ誓ひありとて心強からめ、これをば付けよ」と当てられしもうるさながら、
 行く末遠き君が御代とて
春宮大夫、
 昔にもなほ立ち越えて貢物
具顕、
 曇らぬ影も神のまにまに
春宮の御方
  九十になほも重ぬる老いの波
新院、
  立ち居くるしき世のならいかな
  憂きことを心一つに忍ぶれば
「と申されさぶらふ心の中の思ひは、我ぞ知りはべる」とて、富小路殿の御所、
  絶えず涙に有明の月
「この有明の子細、おぼつかなく」など御沙汰あり。
 暮れぬれば行啓に参りたる掃部寮所々に立明しして還御急がしたてまつる気色見ゆるも、やう変りておもしろし。ほどなく釣殿に御船着けぬれば下りさせおはしますも、飽かぬ御事どもなりけむ。からき浮寝の床に浮き沈みたる身の思ひは、よそにも推しはかられぬべきを、安の河原にもあらねばにや、言問ふ方のなきぞ悲しき。
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ここは非常に微妙な問題があるので、正確を期すために、あえて私訳ではなく久保田淳氏の現代語訳を紹介します。
私見はその後で述べます。

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【久保田訳】 釣殿から遠く漕ぎ出して見ると、古く苔むし、年を経た松が枝を差し交している有様、庭の池水の眺めは言いようもない。広々とした海の上に漕ぎ出したような心地がして、「二千里の外といった遠くに来てしまったのだろうか」などとおっしゃって、新院は、
  「雲の波……(「海漫々」に歌われているあの始皇帝のために不死の薬を探しに出た徐福の船ではないが、海上はるばると、雲煙波濤を分けてきたよ)
音楽に関してこそ、一切演奏しないという誓いを立てたと言って心強く断るだろうが、これは断れまい。これを付けよ」と、私に充てられるのも煩わしいもののの、
  行く末遠き……(行く末遠くまでお栄えになるわが君の御代というので)
とお付けする。次に春宮大夫が、
  昔にも……(昔の聖代をもさらに越えて、貢物が多く運ばれて来るよ)
具顕は、
  曇らぬ影も……(曇らぬ日影も神のご加護のままにさしている)
春宮の御方は、
  九十に……(准后様は九十の上に、老いの波をさらに重ねられるよ)
新院は、
  立ち居くるしき……(年をとると立ち居が苦しいのは、人の世の習いだなあ)
わたしが、
  憂きことを……(つらいことを自分の心だけで忍んでいると)
とお付けすると、「と申される心中の思いは、わたしが知っています」とおっしゃって、富小路殿の御所(御所様)が、
  絶えず涙に……(絶えず涙して、有明の月を見ている)
「この有明がここで出てくる理由が、はっきりしないようで」などという取り沙汰があった。
 すっかり暮れたので春宮の行啓にお供してきた掃部寮〔かもんりょう〕があちこちに松明をともして還御をせき立て申し上げる様子が見えたのも、いつもと様子が変っておもしろい。まもなく釣殿にお船を着けたので、方々がお下りになるのも、余興尽きない御事であったのであろう。あたかも水鳥の浮寝の床のように不安定な境遇に浮き沈みしているようなわたしの思いは、よその人にも推量されそうなものなのに、天の川の安〔やす〕の河原でもないからか、尋ねてくれる人のいないのは悲しい。
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ここで連歌に参加しているのは順番に、

新院〔亀山院〕
二条
春宮大夫〔西園寺実兼〕
具顕
春宮の御方
新院
二条
富小路の御所〔後深草院〕

ですが、具顕は村上源氏、参議具氏の男で、この時左中将です。
このメンバーの中では身分的に少し見劣りする感じがしますが、具顕は「弘安源氏論議」の著者で、春宮(伏見)の歌友達であり、春宮との関係で参加しているものと思われます。

弘安源氏論議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%AE%89%E6%BA%90%E6%B0%8F%E8%AB%96%E8%AD%B0

ちょっと奇妙なのは「春宮の御方」で、「御方」ですから春宮に何らかの縁のある身分の高い女性のような感じがしますが、諸注全て「春宮」その人と考えており、久保田氏も同様です。
さて、私はこの連歌の内容は冒頭の「新院御歌」から「富小路の御所」の有明云々の発言まで極めて異常だと思いますが、少し長くなったのでいったんここで切ります。
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後深草院との久しぶりの邂逅

2019-04-13 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月13日(土)10時09分45秒

「北山准后九十賀」の初日(二月三十日)、「供御膳儀」の対象は大宮院・東二条院・北山准后の三人です。
そして二日目(三月一日)の「供御膳儀」の対象は後宇多天皇・春宮(伏見)・後深草院・亀山院の四人です。
このことから私は、九十賀の名目的な主役はもちろん北山准后であるものの、実質的な主役は大宮院と東二条院の姉妹ではないかと考えてみました。

「北山准后九十賀」 の「供御膳儀」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bcd189ab71d083b722be159b37566aad

さて、三日目になると、「またの日は、行幸還御ののちなれば、ゑふの姿もいとなく、うちとけたるさまなり」ということで、行事の公的色彩が薄れますが、では大宮院・東二条院は何をやっていたのかというと、「北山准后九十賀記(実冬卿記)」にはそもそも三日目の記録がなく、『とはずがたり』『増鏡』を見ても良く分かりません。
その理由を検討する前に、まず『とはずがたり』の原文を見ておきます。
妙音堂で管絃の御遊を見た後、二条のもとに四条隆良が後深草院の手紙を持ってきて若干のやり取りがあり、そして「御鞠果てて、酉の終りばかりに、うち休みて居たるところへ、ふと入らせおはします」ということで後深草院本人が登場します。(久保田淳『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』p419)

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 「ただ今御船に召さるるに、参れ」と仰せらるるに、何のいさましさにかと思ひて、立ちも上がらぬを、「ただ褻なるにて」とて、袴の腰結ひ、何かせさせたまふも、いつよりまたかくもなりゆく御心かと、二年の御恨めしさの慰むとはあらねども、さのみすまひ申すべきにあらねば、涙の落つるをうち払ひてさし出でたるに、暮れかかるほどに、釣殿より御船に召さる。まづ春宮の御方、女房大納言殿・右衛門督殿・高内侍殿、これらは物の具なり。小さき御船に両院召さるるに、これは三衣に薄衣・唐衣ばかりにて参る。春宮の御船に召し移る。管絃の具入れらる。小さき船に公卿たち、端舟につけられたり。
 花山院大納言<笛>、左衛門督<笙>、兼行<篳篥>、春宮の御方<琵琶>、女房右衛門督殿<琴>、具顕<太鼓>、大夫<羯鼓>。飽かずおぼしめされつる妙音堂の昼の調子を移されて、盤渉調なれば、蘇合の五の帖・輪台・青海波・竹林楽・越天楽など、幾返りといふ数知らず。兼行、「山又山」とうち出だしたるに、「変態繽紛たり」と両院の付けたまひしかば、水の下にも耳驚く物やとまでおぼえはべりし。
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久保田氏の現代語訳を参照しつつ、私訳を試みると、

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「ただ今から船に乗るから一緒に参れ」とおっしゃるが、どうしてそんな勇気があろうと思って立ち上がりもしないでいると、「ただ普段の衣装でよいから」とおっしゃって、私の袴の腰紐を結んだり、何かとお世話くださるのも、いったいいつからこのようなお心になられたのだろうかと、二年間お恨み申していたことが慰められる訳でもないけれども、そうそう拒み申し上げるべきことでもないから、涙が落ちるのを振り払って出て行くと、日も暮れようとする時分で、釣殿からお船にお乗りになる。まず春宮の御方、その女房の大納言殿・右衛門督殿・高内侍殿、これらの人びとは礼装である。小さなお船に両院がお乗りになるが、私は三つ衣に薄衣・唐衣だけでお供に参る。春宮のお船にお召しがあったので、乗り移る。管絃の具が運び入れられる。小さい船に公卿たちが乗り、それが端船としてつけられる。
 花山院大納言が笛、左衛門督が笙、兼行が篳篥、春宮の御方が琵琶、女房の右衛門督殿が琴、具顕が太鼓、春宮大夫が羯鼓。飽きずお思いだった妙音堂での昼の調子をそのまま移されて盤渉調なので、蘇合の五の帖・輪台・青海波・竹林楽・越天楽など、数えきれないほど繰り返し演奏する。兼行が「山また山」と朗詠すると、「変態繽紛たり」と両院がお付けになられたので、水の下にもこの美しい声を聞いて耳を驚かせる生き物がいるのではないかとまで思われました。
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といった具合ですが、大宮院・東二条院は登場しません。

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