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「その経歴が、江戸時代末期まで続く長い女院史上の中でも特に異彩を放つもの」(by 三好千春氏)

2019-04-28 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月28日(日)10時06分18秒

伴瀬明美氏の論文により遊義門院の経歴の概要を確認できたので、次に歴史研究者が遊義門院について論じた稀有な論考である三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)を紹介し、その内容を検討したいと思います。
この論文は、

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はじめに
第一章 姈子内親王の立后
 第一節 出自と立后の背景
 第二節 皇后留任
第二章 後宇多後宮における姈子内親王の位置
 第一節 姈子内親王の婚姻
 第二節 姈子内親王の役割
おわりに
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と構成されていますが、最初に「はじめに」で三好氏の問題意識を確認します。(p46以下)

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   はじめに

 近年、鎌倉期公家社会の研究は急速な進展をみた。その成果の一つに、橋本義彦氏の提唱に基づいて、従来から「院政期」と称される平安末期~鎌倉初期のみならず、後嵯峨期以降も視野に入れて「院政」を考察する研究がある。
 しかし、後嵯峨期以降を対象とした院政研究において、女院、皇后、内親王といった存在に言及されているものはあまりに少ない。
 院政期女院に関する研究は、八〇~九〇年代に大きな成果を挙げ、結果、当該期女院の地位の高さ、政治的存在感、治天の君との深い関わりへの評価が、院政期王権論や院政期社会研究一般にも取り入れられつつある。
 しかし、鎌倉期女院に関する研究自体、女院領の伝領と経営実態に関心が集中し、院政期あるいは摂関期女院のような多様な視点で論じられているとは言い難い。女院の員数も、院政期に比して鎌倉期は格段に増加したにもかかわらず、個別の女院に関する研究もほとんど蓄積されていないのが現状である。
 乱立する女院数から個々の実態や全体像を把握することの難しさ、史料的限界、なにより、家長としての権限を増していく治天の君に女院の独立性が吸収され、その支配下のもと女院の地位そのものが低落していく時期であるとの認識が、取組みの遅れの一因として挙げられるだろう。
 鎌倉期に、女院領経営における治天の君(家長)の支配権限が大きくなっていったことは事実である。准三宮から直接女院となる方式が定着した結果、女院号が乱発され、女院の内実が空洞化していったことも指摘できる。しかし、鎌倉期は女院号を持つ全ての存在が、社会的・政治的意味を喪失してしまった時期とは言い難いのではないだろうか。まして女院は、院政という政治体制と密接に結びついて院政期に隆盛したことを考えあわせると、鎌倉期の院政下におけるその存在を検討することは不可欠な作業のはずである。
 そこで本稿においては、後深草皇女・遊義門院姈子内親王に的を絞り、彼女の生きた鎌倉中~後期公家社会の一断面を映し出すことを試みる。彼女を選択するのは、その時代範囲がほぼ両統迭立期をカバーしていることと、その経歴が、江戸時代末期まで続く長い女院史上の中でも特に異彩を放つものだからである。そしてそのことは、当該期の内親王が持つさまざまな要素が彼女に凝縮していることを指し示し、まさしくそこに「「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められている」と思うからである。
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注は省略しますが、最後の「「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められている」は先に紹介した伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」からの引用ですね。
もっとも伴瀬氏は「「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められている」の後に「のかもしれない」とされていますが。

「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a4bec8713917f5e8f008bee409f16c

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