学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「北山准后九十賀」 の「供御膳儀」

2019-04-07 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月 7日(日)14時41分33秒

「北山准后九十賀」の主役であるはずの貞子が『増鏡』『とはずがたり』いずれにおいてもあまり存在感を感じさせないことを縷々書いてきましたが、後深草院二条の敵役として東二条院が登場する『とはずがたり』と違い、『増鏡』では東二条院の存在感も極めて稀薄ですね。
旧サイトでは「北山准后九十賀」についてきちんと検討しておらず、私も今回初めて『とはずがたり』『増鏡』、そして滋野井実冬の「北山准后九十賀記」をじっくり読み比べてみたのですが、初日(二月三十日)の最後に大宮院・東二条院・北山准后の三人に御膳が供されたことはけっこう重要な出来事のように思われてきました。
既に前日の二月二十九日に後宇多天皇の行幸、春宮(伏見)の行啓があり、後深草院・亀山院・東二条院・新陽明門院・姫宮(遊義門院)も参集しているので、食事の提供自体はこれらの人々にもなされているはずですが、『とはずがたり』に「御膳参る」と記されているのは「大宮・東二条・准后」の三人だけです。
また、二日目(三月一日)は「内・春宮・両院、御膳参る」とあって、御膳を提供しているのは後宇多天皇・春宮(伏見)・後深草院・亀山院の四人だけです。
そして「北山准后九十賀記(実冬卿記)」によれば、既に紹介したように初日は、

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次、撤堂荘厳具。此間入夜。予大宮院御方御膳可候陪膳之由有催。仍於中門指笏取打敷入寝殿東第一間。就母屋簾中進入後抜笏退出。東二条院左衛門督為陪膳。自西供之。准后四条宰相勤之。此後退出。
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とあり(『続群書類従』三十三(下)、p553)、二日目は、

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先供主上御膳。陪膳花山院大納言。大炊御門大納言。新院春宮大夫。春宮三条宰相中将等也。賜衝重於諸卿之由雖被載次第無此儀。
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とあって(p553以下)、更に同日の最後に、

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供御膳儀
 先供主上御肴物。
 紫檀地螺鈿御台二本。<無打敷>一御台。<菓子四坏。銀器御箸一双。(木銀在台)。>
 二御台。<干物四坏。銀器。>同御盤一枚。<居御饗銀。>
 御銚子。
 陪膳花山院大納言。役送四条宰相。三条宰相中将。洞院三位中将。
 頭平忠世朝臣。<束帯。巡方帯。>
供一院御肴物。
 色目同前。
 陪膳大炊御門大納言。役送右兵衛督。藤宰相。<定藤。束帯。>
供院御肴物。
 色目同前。<但御台御盤蒔絵有伏輪。>
 陪膳三条宰相中将。<撤弓箭剱。役送内蔵頭宗親朝。束帯。持笏。>
 中将隆良朝臣。<直衣。野剱。壺胡簶。>
 勘ヶ由次官信経。
 次賜衝重於公卿。
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とあり(p555以下)、相当に重要な儀礼であることが分かります。
この「供御膳儀」の重要性に照らすと、初日の「供御膳儀」の対象が「大宮・東二条・准后」であることは、「北山准后九十賀」の開催を主導したのが実は大宮院と東二条院の姉妹二人であることを示しているのではないか、と思われてきます。
私はこの行事の目的を後深草院と亀山院の宥和にあると考えているのですが、大宮院は後嵯峨院崩御後の幕府対応で亀山院を強力に支援した人で、以来、母子とはいえ後深草院との関係はあまり良くなかった人です。
とすると、大宮院一人の主導では「北山准后九十賀」の開催は円滑に進まなかったはずで、この行事は実際には大宮院と東二条院の共催だったのではないかと考えられます。
しかし、『増鏡』では東二条院の役割について全く言及がないばかりか、初日の「供御膳儀」から東二条院が消えています。
これはやはり『増鏡』の作者が東二条院に敵意を持つ人物、即ち後深草院二条なのではないかという私の推測の補強材料になりそうです。

>筆綾丸さん
>連歌をぶち壊して九十賀に難癖をつけているようで、
>なんだ、この駄句は、という気がします。

おっしゃる通りですね。
「立居苦しき世のならひかな」は老齢による身体動作の不自由さを示唆しているようにも見え、祝意に欠けますね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

本院と新院の違い 2019/04/06(土) 11:14:00
小太郎さん
『とはずがたり』『増鏡』の九十賀における北山准后の描写は、本が凄いので末も凄い、というのではなくて、末が凄いので本も凄い、という論理になっていて、賀宴が華麗であればあるほど、それだけ一層、准后の平凡ですらない平凡さが際立つ、というような逆説的な印象を受けますね。
賀宴の最後は連歌で終わっていますが、最後の句つまり挙句は祝言であるから目出度く言祝いで終えるべきところ、
   ---------------------------
???? 立居苦しき世のならひかな      (『とはずがたり』)
  ??たちゐくるしき世のならひかな    (『増鏡』)
???? ---------------------------
としたのでは挙句にならず、連歌をぶち壊して九十賀に難癖をつけているようで、なんだ、この駄句は、という気がします。普通なら、賀宴(三月初旬)の藤の花にかけて、九重に匂ひぬるかな不二の波、とかなんとか付けるところです。
また、『とはずがたり』では、
 -----------
 春宮の御方、
   九十になほも重ぬる老の波
 新院、
   立居苦しき世のならひかな
??-----------
で、『増鏡』では、
??-----------
 春宮、
   九十になほもかさぬる老のなみ
 本院、
   たちゐくるしき世のならひかな
??-----------
とあって、挙句を詠んだ人が違います。後深草院か亀山院かによって、連歌の余韻も賀宴の様子も変わってきますが、『増鏡』にあるように、弟の亀山院ではなく兄の後深草院が詠んだものとするほうが自然であるような気がします。なお、連歌の前にある春宮大夫(西園寺実兼)の、
   -------------------------------------------------
   代々のあとになほ立ちのぼる老の波よりけん年は今日のためかも   (『とはずがたり』)
   代々のあとになほ立ちのぼる老の波寄りけん年は今日のためかも   (『増鏡』)
???? -------------------------------------------------
は、尋常な言祝ぎの歌になっていますね。

大屋氏はいつもながら冴えていますが、本郷氏は文壇(?)の寵児になり焼きが回ったかもしれませんね。

駄句 2019/04/06(土) 13:44:32
團十郎の睨みを真似て Gone with the Wind とばかりに出所したカルロス・ゴーン氏が、よんどころなくまた小菅に戻らんとすると、獄門の満開の桜の樹の下で、こんな句を詠む奴がいる。

  出戻りを 是々非々と咲く 桜哉
コメント
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