学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)

2019-04-26 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月26日(金)20時40分49秒

続きです。(p147以下)

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 しかし、もし盗み出したのが事実であったとしたら─そんな乱暴な手段に訴えでもしない限り、後深草院秘蔵の皇女を、対立統の後宇多院が正式に后に迎えることは至難の業であっただろうということは容易に想像される。いずれにせよ、この一件の背景にも、両統間の対立関係の構図を感じとらざるをえない。
 さて、盗み出された姈子内親王が後宇多院に対してどのような気持ちを抱いていたか、それについてははっきりとは分らない。だが、後宇多院の方は姈子に深い愛情を注いだようだ。
 『増鏡』は、「(後宇多院は)譲位なさったのちは、心のおもむくままにたいそう忍び歩きをなさったので、このころは院のご寵愛を争う方々が多くなられたが、やはり遊義門院への御思いの程に比べられるような方はけっしてなかった」と、後宇多院の数多い寵妃のなかで、姈子が特別な存在であったことを描いている。
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伴瀬氏が現代語訳されている『増鏡』の一節は巻十二「浦千鳥」の冒頭ですね。
原文は、

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院の上は位におはせし程は、中々さるべき女御・更衣もさぶらひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後、心のままにいとよくまぎれさせ給ふ程に、この程はいどみ顔なる御かたがた数そひ給ひぬれど、なほ遊義門院の御心ざしにたちならび給ふ人は、をさをさなし。

http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm

というものです。
伴瀬論文に戻ると、

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 一三〇四年(嘉元二)一月二一日、姈子内親王は母の東二条院を失い、その喪も明けぬ七月一六日、今度は父、後深草院までが世を去った。生れたときから後宇多院の妃となるまでずっと父母の膝もとですごしただけに、彼女の哀傷は他の皇子女にまさるものがあったであろう。ねんごろに追善仏事を営む日々のなかでは、わが身の数奇な運命にあらためて思いをいたすこともあったかもしれない。
 『とはずがたり』には、一三〇六年(徳治元)ごろ、石清水八幡宮に御幸してお忍びで摂社・狩尾社に参っていた姈子内親王が、参り会わせた尼姿の二条にそれとは知らず親しく話しかける印象的な場面が描かれている。女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう。
 その翌年の一三〇七年(徳治二)七月二四日、姈子内親王は三八歳で没した。急な病いであったらしい。その二日後の葬送の日、後宇多院は彼女の死をいたんで出家した。
 なにかと謎が多い彼女の履歴には、「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められているのかもしれない。
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ということで、これで終りです。
遊義門院との邂逅は『とはずがたり』巻五の最後の方に出てくる場面ですが、「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」というのは些かビンボー臭すぎて、ちょっと変ですね。
諸注釈書を確認したところ、久保田淳氏が「今日は八日とて、狩尾へ如法御参りといふ」(今日は八日というので、狩尾社へ作法どおりご参詣ということである)とされている箇所(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』p526)の「如法」が底本では「女はう」で、これを次田香澄氏が「女房」とし、「今日は八日とて狩尾へ女房方の御参りがあるという」(講談社学術文庫版『とはずがたり(下)全訳注』、p431)と解釈されているようです。
伴瀬氏は次田氏の解釈に従われたのでしょうが、既に冨倉徳次郎が「如法」とし(『とはずがたり』、筑摩書房、1969)、三角洋一氏も「女法」としながら意味は「如法」と同じとされていて(『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』、p243)、まあ、ここは次田氏の誤解ですね。
場面全体を見れば「御幣の役を西園寺の春宮権大夫〔今出川兼季〕務めらるる」など、女院の御幸の格式は維持されていることが明らかです。
さて、遊義門院の死とその二日後の後宇多院の出家は、『増鏡』で先に引用した部分の後に「中務の宮〔宗尊親王〕の御女」瑞子(永嘉門院、1272~1329)と「一条摂政殿〔一条実経〕の姫君」頊子(万秋門院、1268~1338)への若干の言及の後、

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 露霜かさなりて程なく徳治二年にもなりぬ。遊義門院そこはかとなく御悩みと聞えしかば、院の思し騒ぐこと限りなく、よろづに御祈り・祭・祓へとののしりしかど、かひなき御事にて、いとあさましくあへなし。院もそれ故御髪おろしてひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。その程、さまざまのあはれ思ひやるべし。悲しき事ども多かりしかど、みなもらしつ。
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という具合に描かれます。
遊義門院はこのとき三十八歳ですから、まだまだ若いですね。
ところで伴瀬氏の描く遊義門院像は常に受け身の存在です。
行動するのは後宇多院の側であって、遊義門院は「盗み出された」存在であり、「盗み出され内親王が後宇多院に対してどのような気持ちを抱いていたか、それについてははっきりとは分らない」けれども、後宇多院は能動的に「姈子に深い愛情を注いだよう」であり、遊義門院は深い愛情を注がれたらしい存在と把握されています。
このような常に受け身の遊義門院像は三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)でも共通なのですが、果たしてそれでよいのか、というのが私の伴瀬氏、そして三好氏への根本的な疑問です。
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