学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『とはずがたり』に描かれた北山准后(その2)

2019-04-03 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月 3日(水)10時49分24秒

『とはずがたり』に北山准后の名前が登場する三番目は巻一の最後の方、二条が後深草院から特別な待遇を受けているのは許せないという東二条院に対し、後深草院が弁解の手紙を書く場面です。
二条への嫉妬にかられた東二条院は、こんな理不尽な、私の面目丸つぶれの扱いが続くなら私は抗議のために出家するぞ、と宣言します。
それに対して後深草院は、

-------
「承り候ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身のとがも候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。
 また三つ衣を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、『わが身位あさく候。祖父、久我の太政大臣が子にて参らせ候はん」と申して、五つ緒の車数、袙・二重織物許り候ひぬ。そのほかまた、大納言の典侍は、北山の入道太政大臣の猶子とて候ひしかば、次いでこれも、准后御猶子の儀にて、袴を着そめ候ひしをり、腰を結はせられ候ひしとき、いづ方につけても、薄衣白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄などまでも許り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り候、心得ず候。

http://web.archive.org/web/20081231170923/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-37-innobengo.htm

などと手紙に書いたのだそうです。
二条の母親の「大納言の典侍」は自分によく仕えてくれたが、感謝する間もなくあっさり死んでしまった。父親の故大納言雅忠との約束もあった。二条が三つ衣を着たのは今に始まったことではなく、四歳の初参の折、父雅忠の地位が低いので「祖父久我太政大臣が子」という格式で参ることを許した。また、「大納言の典侍」は「北山の入道太政大臣」西園寺公経の猶子として伺候していたが、その例に習い、二条も「准后御猶子の儀」で伺候しているのだ云々と後深草院の弁解は延々と続きます。
ま、どこまで本当かは分かりませんが、ここで興味深いのは二条の母親は四条家の人ではあるけれども「北山の入道太政大臣」西園寺公経の「猶子」であることが強調され、また二条自身も母に次いで北山准后の「猶子」であることが強調されています。
つまり北山准后は四条家の人ではなく、西園寺家の人と位置づけられているように思われます。
さて、北山准后の名前が登場する四番目は巻二の冒頭「粥杖事件」です。
Internet Archive で保存してもらっている私の旧サイトの「原文を見る-『とはずがたり』」を見たところ、北山准后の名前が出てくる場面は省略していました。

http://web.archive.org/web/20150516032839/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa-index.htm

そこで、久保田淳校注・訳『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』から関係部分を引用します。(p289以下)

-------
 さるほどに、隆顕申すやう、「祖父・叔父などとて、咎を行はれさぶらふ、みな外戚にはべる。伝へ聞く、いまだ内戚の祖母はべるなり。叔母また同じくはべる。これにいかが仰せなからむ」と申さる。
「さることなれども、筋の人などにてもなし。それらまで仰せられさぶらはむこと、余りにさぶらふ。うるはしく苦りぬべきことなり」と仰せあるに、「さるべきやうさぶらはず。主を御使にてこそ仰せさぶらはめ。また北山の准后こそ幼くより御芳心にて、典侍大もはべりしか」と申す折に、「准后よりも、罪累りぬべくや」と西園寺に仰せらる。「余りにかすかなる仰せにもさぶらふかな」としきりに申されしを、「いはれなし」とてまた責め落とされて、それも勧められき。
 御事常のごとく、沈の船に麝香の臍三つにて船差作りて乗せて、御衣と、御所へ参る。二条左大臣に牛・太刀、残りの公卿には牛、女房たちの中へは箔・洲流し・なしたへ・紅梅などの檀紙百。
-------

「粥杖事件」とは、後深草院の悪ふざけに憤慨した女房たちが二条を中心に一致団結し、後深草院をつかまえて杖で散々に打ったところ、公卿の会議で「十善の床を踏んで、万乗の主となる身」に杖を当てたことは大罪だということになって、主謀者の二条の処分が議されるも、年の初めに女房を流罪にするのは宜しくないだろうということで二条の関係者が高価な財物を提供する「贖い」をすることになった事件です。
最初に「贖い」を課せられたのは二条の母方の四条家関係者で、善勝寺大納言隆顕と隆親が財物を、そして「隆弁僧正」が四条家伝来の包丁の技を披露することになります。
ついで二条の父方の祖母、久我の尼上、叔母の京極殿も「贖い」を行なうことになり、更に「北山の准后こそ幼くより御芳心にて、典侍大もはべりしか(北山の准后こそは幼い時から二条を可愛がり、母・典侍大〔すけだい〕とのゆかりもありました)」ということで北山准后に「贖い」が課せられそうになったところ、後深草院は「准后よりも、そなたに罪が及ぶであろう」と西園寺実兼に言ったので、実兼は「あまりにも根拠のはっきりしない御命令ですね」と抵抗したものの、結局責め落されて、西園寺家にも「贖い」が課せられた、という展開となります。
四幕物のコメディになっていて楽しい場面ですが、史実かどうかは別として、ここで興味深いのは北山准后は四条家側の人ではなく西園寺家に属する人として登場していることです。
北山准后が登場する三番目の場面では若干微妙でしたが、「粥杖事件」では、北山准后は明らかに西園寺家の人として位置付けられていることが分かります。

>好事家さん
いえいえ。
どういたしまして。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする