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源彦仁と忠房親王(その1)

2018-02-05 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 5日(月)15時04分31秒

『増鏡』で月花門院の愛人の一人とされている源彦仁は『五代帝王物語』の成立年代を考える上でも重要な人物で、弓削繁校注『六代勝事記・五代帝王物語』(三弥井書店、2000)の弓削氏による「解説」に次のようにあります。(p36以下)

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 次に、著作年代であるが、上限推定の根拠として早くから注目されてきたのは、順徳院の皇統に言及した次の一節である。

 順徳院の宮御元服ありしをば、人も何とやらむ思たりき。さてつひに親王の宣旨だにもなくて、
 其御子三郎宮とておはしまししは、源姓給て、彦仁とて、正応永仁の比中将に成て上階などせ
 られしかども、三位中将にてうせ給ぬ。その御子ぞ当時つかさなどなり給ぬる。

すなわち、これをもとに坂井氏(上掲書)は「花園帝の正和頃の述作と見える」とし、坂本太郎氏(『日本の修史と史学』昭和三十三年十月)は彦仁王の亡くなった永仁六年三月二十三日以後の著述と断じ、外村氏(前掲載論文)は彦仁の子の忠房親王が「つかさ」になったという点を『公卿補任』に徴して、彼が正五位下で元服し、禁色・昇殿を聴された正安三年(一三〇一)十二月十五日以降と推定したのである。然るに、武久堅氏(前掲書)は新たに『続古今集』の竟宴を記した中に、

 和歌披講の後、御遊に中将忠資めされて、所作人は皆公卿なれば、徳大寺大相国公孝公其時中将
 にて拍子とられたりしと、ただ二人殿上人にてすゑにめし加へらえて篳篥仕まつりたしりは優に
 こそみえしに…

とあるのに注目して、公孝の太政大臣に任じた乾元元年(一三〇二)十一月二十二日以降と見る。上限を示す証左としてはこれが有効だろう。
 一方、下限については、諸氏とも嘉暦二年(一三二七)八月二十一日の書写を伝える現存諸本の旧奥書(諸本の項参照)を以てそれを降らないものとする。
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「坂井氏(上掲書)」は坂井衡平『新撰国文学通史』(1926)、「外村氏(前掲載論文)」は外村久江「五代帝王物語考─正元二年院落書・増鏡との比較」(『日本文化史研究』、1969)、「武久堅氏(前掲書)」は『日本古典文学大辞典』(1984)です。
弓削氏自身は「その御子ぞ当時つかさなどなり給ぬる」に着目し、これが「公卿になって間もない頃」だとして「その成立はおよそ乾元二年(一三〇二)十一月から徳治元年(一三〇六)十二月に至る四年間に限定されてくる」とされるのですが、その当否はともかくとして、忠房親王の経歴は非常に珍しく、興味深いですね。
『公卿補任』正安四年(乾元元年、1302)を見ると、「源忠房」は正安三年(1301)十二月、元服して正五位下に直叙、「禁色昇殿」、左少将に任ぜられ、翌四年正月、「遊義門院当年御給」により従四位下、ついで同年四月に従四位上、更に七月に従三位(越階)という具合に異常な昇進を重ねます。
ついで嘉元三年(1305)正月に「院当年御給」で正三位、徳治元年(1306)九月に左少将から左中将に転じ、同年十二月には権中納言に直任されます。
延慶二年(1309)二月に権中納言を辞し、正和五年(1316)十一月、従二位。
そして文保三年(1319)の「二月十八日為無品親王」という説明とともに『公卿補任』から消えます。
そこで『続史愚抄』文保三年二月を見ると「十八日甲辰。従二位源朝臣忠房<前権中納言。順徳院曾孫。三位中将(彦仁王)男。>為法皇御猶子。為無品親王。<〇公卿補任、歴代最要、紹運録>」とあって、ここまで奇妙な経歴は他に類例を思い浮かべることができません。
ところで、『公卿補任』・『尊卑分脈』等を見ると、忠房親王の母は二条良実の娘であり、また、その室は二条兼基の娘であって、ここで二条師忠との接点が出てきます。
二条師忠(1254-1341)は良実(1216-70)の息子であり、また、二条兼基(1267-1334)は師忠の弟で師忠の養子となった人ですから、忠房親王の母、即ち源彦仁室は二条師忠の姉妹であり、忠房親王室は二条師忠の姪です。
いわば源彦仁と忠房親王の父子は二条家が丸抱えしているような存在ですね。
そして、忠房親王の奇妙な経歴は、その昇進と親王宣下の全てに後宇多院が関わっていることが明らかです。
「忠房」という名前も、後宇多院の側近には六条有房・吉田定房など「房」の字が付く人が多いという本郷和人氏の見解(『中世朝廷訴訟の研究』、p262、「廷臣小伝」万里小路宣房の項)を連想させます。

忠房親王(1285?-1347)

>筆綾丸さん
>二条師忠への揶揄のみならず、大覚寺統は有職故実すら弁えぬ無知な連中の集まりだ、と云ったような皮肉

これはないですね。
建治三年(1277)の話なので、そもそも持明院統・大覚寺統の対立など存在しない時期です。
本郷和人氏は弘安十年(1287)から始まる後深草院政について、「まもなく起こる両統の迭立という事象を知る我々は、ともするとそれを前提として考察を進めてしまう」「後深草上皇の復権は、建治元年(一二七五)年の熈仁立太子の時点で、ある程度わかっていたことであった。にもかかわらず、後深草上皇の周囲に党派が形成された形跡はない」(『中世朝廷訴訟の研究』、p160)と指摘されています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

髪結いの祖 2018/02/04(日) 13:29:32
小太郎さん
後宇多の元服の儀式における「加冠ー関白太政大臣、理髪ー頭中将、総角ー大納言」は、「後嵯峨院五十賀試楽」や「北山准后九十賀」のようにうんざりするほど精緻な儀式描写をする作者とは思えぬ不自然で珍妙な記述で、ご指摘のとおりかと思いますが、これにはさらに、二条師忠への揶揄のみならず、大覚寺統は有職故実すら弁えぬ無知な連中の集まりだ、と云ったような皮肉をも含意している、という読みは成り立ちますか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%87%87%E5%A5%B3%E4%BA%AE%E6%94%BF%E4%B9%8B
『京都ぎらい 官能篇』に、嵯峨の御髪神社が紹介されていますが、藤原政之という名は初めて知りました。
コメント
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