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「巻八 あすか川」(その14)─「経任出家せず」

2018-02-10 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月10日(土)23時31分13秒

『とはずがたり』と『五代帝王物語』の後嵯峨法皇崩御関係記事には細かい点で気になることも多いのですが、ひとまず『増鏡』に戻ります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p167以下)

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 廿三日御初七日に大宮の院御ぐしおろす。その程いみじく悲しき事多かり。天の下おしなべてくろみ渡りぬ。よろづしめやかにあはれなる世の気色に、心あるも心なきも、涙もよほさぬはなし。
 院・内の御嘆きさる事にて、朝夕むつましく仕うまつりし人々の、思ひしづみあへるさま、ことわりにも過ぎたり。その中に、経任の中納言は人よりことに御覚えありき。年も若からねば、定めて頭おろしなんと、皆人思へるに、なよよかなる狩衣にて、御骨の御壺持ち参らせて参れるを、思ひの外にもと見る人思へり。
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二十三日の御初七日に大宮院は落飾された。その頃は非常に悲しいことが多かった。天下の人々はみな喪服になった。万事しんみりとして物哀れな世間の有様に、心ある者も心ない者も、涙を催さぬ人はいない。
後深草院や今上天皇(亀山)のお嘆きはもちろん、朝夕法皇に親しくお仕えしていた人々の悲しみに沈んでいる様子は大変なものであった。その中に、経任の中納言は他の人々より格別に御寵愛があった。年も若くないので、きっと出家するのだろうとみんな思っていたのに、いつも通りのしなやかな狩衣を着て、御骨壺を捧げ持って参ったのを見た人々は、何とも意外なことだと思った。

ということで、中御門経任への非難は『とはずがたり』の、

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経任さしも御あはれふかき人なり、出家ぞせんずらんと、みな人申し思ひたりしに、御骨の折、なよらかなるしじらの狩衣にて、瓶子に入らせ給ひたる御骨を持たれたりしぞ、いと思はずなりし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a47b7106dde47d8c386b7092f9c6bdbd

を受けていることが明らかです。
経任がなぜここまで非難されなければならないのかは別に検討するとして、御骨云々はかなり唐突で、そもそも何時のどのような状況での話なのかが分かりにくいですね。
そのあたりは『五代帝王物語』に若干の説明があって、

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 去程に、十七日卯の時に、法皇つひに御事きれさせ給ふ。後の御事ども大宮院の御計なるうへ、建久の守覚法親王の例に任せて、円満院の宮御沙汰あり。前左府(に)仰合られて行はる。奉行は、是も建久の例を守れて、前左府・帥中納言<経任卿>・左中弁<親朝>、建久には花山右府<兼雅公>・民部卿<経房卿>・左中弁<棟範朝臣>也。親朝朝臣、棟範朝臣が余流ならねども、時に中弁なるうへ、奉行すべき器量なるによりて、京の御所より思食定られて、亀山殿へ入御の後、兼て仰聞せらる。本所は後白河院崩御建久の例を守る。禁裏は後三条院延久(の)例を逐る。新院は白河院大治の例をひかる。
 さて、御葬礼已下の次第の御事ども果て、御骨は帥中納言<経任>掛まゐらせて、法花堂建立の程、まづ浄金剛院へ入せ給。法親王たち・前左府以下供奉せらる。其程の事書尽しがたし。御仏事は亀山殿の寝殿にて行はる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bd1ccb41cc6bef78e04218bd13df9c4

ということで、これによると、中御門経任は葬儀の奉行の一人であり、法皇の御骨は法華堂建立までの間浄金剛院に安置することになったので、そこへ向かうための行列の一員として御骨を入れた壺を持つ役割を果たした訳ですね。
『続史愚抄』を見ると「凶事奉行」が「後院司前左大臣<実雄>・帥中納言<経任>・左中弁親朝朝臣」で、崩御の翌十八日に「御入棺」、十九日に「故院遺体」を寿量院から出して火葬し二十日に「御拾骨」、そして「仙骨」を入れた壺を白絹の袋に包み、それを中御門経任が首にかけ、行列を作って浄金剛院に入れたということで、経任はあくまで正式に定められた「凶事奉行」の一員として行動しており、何ら非難に値する行動はありません。
むしろ、「凶事奉行」でありながら勝手に出家して公的な役目を放棄したら非難轟々だったはずです。
『増鏡』は二十三日の大宮院出家の後に御骨の一件を記載していますが、実際には二十日の出来事ですね。

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『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その2)

2018-02-10 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月10日(土)14時41分19秒

続きです。(『六代勝事記・五代帝王物語』、p151以下)

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 さて亀山殿にては、御心地も次第に弱く思食さるれば、御祈どもいとど数を尽す。御方々にも臣下も、われ劣らじとせられしかども、又大事にならせおはしませば、つひの所に兼て思食れて作おかれたる寿量院の御所へ、二月七日入せ御座す。京御所より御出の有し迄は、猶もし立帰る御事もやと覚しに、今は限の御ゆきなれば、申もおろか也。今日よりは伺候の公卿・殿上人も人数を定られて、御点(の)人々少々の外は参りよらねば、いとどかきくれてこそ思あはれつらめ。実伊法印<南松院僧正>・浄金剛院長(老)<覚道上人>此二人をめされて、臨終の御沙汰の外他事なし。
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『とはずがたり』では「御善知識には経海僧正、また往生院の長老参りて」とあり、『五代帝王物語』では「実伊法印<南松院僧正>・浄金剛院長(老)<覚道上人>」となっていて、臨終に侍した高僧の組み合わせが違っていますが、『増鏡』では二月七日、寿量院に移った後に、「ここへはおぼろげの人は参らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて法の道ならではのたまう事もなし」とした上で、十七日の臨終に際して「経海僧正・往生院の聖など参りて」とあって、『とはずがたり』と『五代帝王物語』を総合した形で三人の高僧が登場しています。

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 十四五日の程はことに時を待御事にて有しに、十五日の暁より、武家ざま何とやらむ物忩なる様に聞えし程に、今日浄金剛院の涅槃講なれば、恒例の事なるうへ、今年は釈尊入滅の支干に当たれば、殊に折節もあはれをとりそへて、僧衆も袖をしぼりて行ふ程に、六波羅に既に合戦すると云程ぞある、やがて火いできて、煙おびたたしくみゆれば、いとど世中かきくれて、何と成やらむと覚る程に、門守護の武士共一人もなし。皆はせ向ふ。京中おびたたしきくれにてぞありし。去年十二月に関東より左近大夫将監義宗上て六波羅の北方にあれば、もとの式部大輔はもとより南方にあり。此暁鎌倉より早馬つきて後、なにとなくひしめきて、人もいたく心得ざりけるに、南方の時輔を討べしとて押寄ければ、とりあへぬありさまなりけれども、思程は戦たりけるやらむ、はては火をかけて、多の者共或は打死、或焼死もありけり。さしも人のおぢ恐てありしに、纔に一時の中にかく成ぬる事、武家のならひ皆かくぞ有とも、殊にはかなき夢とみえて、あじきなく覚侍。十六日、猶余波もあるべしとさまざまきこえしかば、さならぬ月日ぞ多に、此折ふしいとどいかにあるべしとも覚えず。我も人もあきれてのみ有しに、六波羅より使をまゐらせて、謀叛のきこえ候つるをめしとりて、別事なき由を申たれば、すこしおちゐたる心地してぞ有し。
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『五代帝王物語』で一番興味深いのは二月騒動がかなり詳しく描かれている点です。
最初に六波羅で合戦が起きたとの情報が入り、ついで火事が遠望され、亀山殿守護の武士が一人もいなくなります。
去年十二月に赤橋義宗が上京して六波羅探題北方となっていたが、十五日早暁、鎌倉から北方に早馬が到着して慌ただしい動きが始まり、北方の軍勢が南方・北条時輔に攻撃を仕掛け、時輔側も思う存分戦ったようで、最後には火がかけられて大勢が討死・焼死したという具合に、だんだん事情が判明してきます。
それでも翌十六日、まだ何かありそうだと不安に思っていたところに六波羅から使者が来て、謀叛を起こそうとした者を召し取って騒動は終息したと報告したので、人々は少し落ち着いた気持ちになった、ということで、このあたりは亀山殿にいた人々の心理の動きを時系列に沿って極めて臨場感溢れる筆致で描いており、筆者は京御所からの出発を見送っただけの人ではなく、亀山殿にも滞在して一部始終を実際に体験した人のような感じがします。
なお、『とはずがたり』には九日に両六波羅が後嵯峨法皇のお見舞いに来たとの記述がありますが、この指摘は『五代帝王物語』にはありません。
そして『増鏡』は二月騒動を全く無視しています。

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 去程に、十七日卯の時に、法皇つひに御事きれさせ給ふ。後の御事ども大宮院の御計なるうへ、建久の守覚法親王の例に任せて、円満院の宮御沙汰あり。前左府(に)仰合られて行はる。奉行は、是も建久の例を守れて、前左府・帥中納言<経任卿>・左中弁<親朝>、建久には花山右府<兼雅公>・民部卿<経房卿>・左中弁<棟範朝臣>也。親朝朝臣、棟範朝臣が余流ならねども、時に中弁なるうへ、奉行すべき器量なるによりて、京の御所より思食定られて、亀山殿へ入御の後、兼て仰聞せらる。本所は後白河院崩御建久の例を守る。禁裏は後三条院延久(の)例を逐る。新院は白河院大治の例をひかる。
 さて、御葬礼已下の次第の御事ども果て、御骨は帥中納言<経任>掛まゐらせて、法花堂建立の程、まづ浄金剛院へ入せ給。法親王たち・前左府以下供奉せらる。其程の事書尽しがたし。御仏事は亀山殿の寝殿にて行はる。
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そうこうしているうちに、十七日の卯の時に、法皇はとうとうお亡くなりになられた。崩御後の御仏事などは大宮院が御計らいになったが、建久三年(1192)の後白河法皇の葬礼を息子の守覚法親王が沙汰した例にならって円満院宮(円助法親王)の御沙汰であった。前左大臣・洞院実雄に仰せて葬儀を行なわれた。葬儀の奉行は、これも建久の例にならって、前左大臣、帥中納言・中御門経任卿、左中弁親朝朝臣であった。建久の時は右大臣・花山院兼雅卿、民部卿・吉田経房卿、左中弁・平棟範朝臣であった。親朝朝臣は棟範朝臣の子孫ではないが、現役の中弁である上、奉行にふさわしい器量の持ち主であるので、禁裏(亀山天皇)がかねて定められて、亀山殿へ入られた後にその旨の仰せがあった。葬礼に際しては、本所(亀山殿)では後白河院崩御の建久の例に、禁裏(亀山天皇)では後三条院崩御の延久の例に従い、新院(後深草院)は白河院崩御の大治の例に従った。
さて、御葬礼以下の諸行事が終り、法皇の御骨は帥中納言(経任卿)が捧持し、法華堂建立まで安置するため、まず浄金剛院にお入れした。法親王たち・前左大臣・洞院実雄卿以下が供奉した。その程の事は書き尽くしがたい。御仏事は亀山殿の寝殿にて行われた。

ということで、このあたりは『五代帝王物語』の独自情報が多いですね。
御骨を運ぶ役の中御門経任について、『五代帝王物語』には『とはずがたり』や『増鏡』のような否定的評価は見られません。
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『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)

2018-02-10 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月10日(土)12時54分42秒

『増鏡』・『とはずがたり』との比較のため、『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御の場面も紹介しておきます。(弓削繁校注『六代勝事記・五代帝王物語』、三弥井書店、2000、p149以下)
『五代帝王物語』は後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山の五人の天皇の治世を描いた歴史物語ですが、この後嵯峨法皇崩御の場面の後、その遺詔・相続の問題に触れて終わりになります。
また、『とはずがたり』は正嘉二年(1258)に生まれた後深草院二条が十四歳になった文永八年(1271)から始まっていて、『五代帝王物語』と時期的に重なるのは僅か二年ほどです。
そして、後嵯峨法皇崩御は『五代帝王物語』・『とはずがたり』・『増鏡』の三書が交錯する貴重な場面です。

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 かかる程に、過ぬる夏の比より龍顔も少し衰てみえさせおはしまししかども、さまでやはと覚し程に、年も暮ぬれば、とりたてたる御事はなけれども、御足のけ煩はしく渡らせ給と聞し程に、正月二日、富小路殿へ御幸あるべきにて其日までこそ延たりしかども、猶いかがあるべきと云御事にてのびさせおはしませば、こはいかに有べき御事ぞとあさましく思ふ程に、次第に御増気、さまざまの御療治・御祈、数尽くさるれども効なし。宝算五十迄とこそ年来は祈念もありしかば、さのみはいかがあるべき。御祈祷も留めて、一筋に後世の御さたにてあるべしと叡慮には思食たれども、さては又あるべき御事ならねば、内外の御祈、残事なく始行る。
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『増鏡』では後嵯峨法皇の病状の具体的説明はなく、『とはずがたり』では「腫るる御ことにて、御灸いしいしとひしめきけれども」とあったものの、体の何処が悪いのかは明示していませんでしたが、『五代帝王物語』には「御足のけ煩はしく渡らせ給」とのことで、『とはずがたり』と併せて足が腫れていることが分かります。
なお「(御足の)け」とは気配・状態の意味です。
文永九年(1272)正月二日に富小路殿に御幸の予定があったこと、そして「御祈祷も留めて、一筋に後世の御さたにてあるべしと叡慮」があったという話は『増鏡』・『とはずがたり』には見えず、『五代帝王物語』だけの情報です。

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 さる程に、もとよりいかなる御事もわたらせ給はん時は、亀山殿にてと思めし儲られたる御事なれば、正月十七日、嵯峨殿へ入せ御座すに、晴儀にてこそなけれども、年始の御幸なるうへ、殊に引刷はる。今日の御所、今日を限と思食たるありさま、君も臣も打あらはれて袖をしぼらねども、上下打しほれて、面々の心中たとふべき方なし。御輿にめされて、ことにつよつよしくみえさせ給へば、「あはれ、千秋万歳もわたらせおはしませかし」と、云かひなき身迄も手を挙てみまゐらせつる。
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「云かひなき身迄も手を挙てみまゐらせつる」は『五代帝王物語』の著者が「自分のように取るに足りない者までも手を挙げて見送り申し上げた」という意味ですが、この後の記述を見ると、著者は嵯峨にも同行しているような書き方です。

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 今日は別勅にて、帥中納言経任卿、後騎につかうまつりて御水瓶の役なども勤めけるに、路にてもきこしめさむ料に、御水瓶に煎物を入て持せられたりけるが、中御門大宮へ御輿かきすゑ、まゐらむとすれば、御煎物心うつくしく一滴もなくうせにけるぞ、まことに不思議に覚侍し。
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中御門経任が「後騎につかうまつりて」いたというのは『五代帝王物語』だけの情報です。
『増鏡』・『とはずがたり』には煎じ薬を作って水瓶に入れた医師の名前が種成・師成であり、水瓶を運んだ北面の名前が「北面の信友」(『増鏡』)、「北面の下臈のぶとも」(『とはずがたり』)だとありますが、『五代帝王物語』には出て来ません。
また、煎じ薬を出そうとした場所について、『増鏡』には「内野の程にて参らせんとして」、『とはずがたり』にも「内野にて参らせんとするに」とありますが、『五代帝王物語』では「中御門大宮」です。
そして煎じ薬を運び、提供する責任者について、『とはずがたり』では「経任」と呼び捨て、『五代帝王物語』では「別勅にて、帥中納言経任卿」とあるのに、『増鏡』では「隆良の中納言」です。
文永九年(1272)正月の時点では、中御門経任(1233-97)は権中納言従二位・太宰権帥ですが、四条隆親の末子・隆良は正四位下・右少将・越前守で、権中納言となるのは二十二年後の永仁三年(1294)です。
従って、この場面で登場するにふさわしいのは明らかに中御門経任ですが、『五代帝王物語』と『とはずがたり』を参照しているのが明らかな『増鏡』の作者は中御門経任を四条隆良に変更しています。

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後鳥羽院御所、賀陽院殿(の)跡、中御門西洞院を、経任卿給て花亭を造りたりしかば、常に御幸ありしに、後鳥羽院の御霊、御心とけぬ事にて有けるやらむ、其効も有けるとかや聞えし程に、御悩の程にも、冷泉殿のうち弘御所に大臣達のまゐ(り)て候程の座しきに、こえらかにゆゆしき僧の着座したれば、たれにかと思て、「たが御まゐりと申候はんぞ」と女房の問けれども返事もなければ、ひがめかと思て、又女房をぐして二人してとへども、更にいらへもせで、はてはくらりとうせにけり。不思議にぞありける。
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「賀陽院殿」について、弓削繁氏は頭注(p151)で、

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「高陽院<中御門南、堀川東、南北二丁南一丁>](拾芥抄)。もと桓武天皇皇子賀陽親王邸。のち頼通邸。後冷泉等の里内裏。後鳥羽は元久二年(一二〇五)十二月に新造の高陽院に移徙。貞応二年正月十二日焼失。
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と記し、更に補注195(p283)で、

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高陽院はもともと桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅で、後冷泉・後三条の皇居となり、藤原頼通邸ともなったが、貞応二年(一二二三)正月十二日に焼失した。そのことは『百錬抄』同日条に「御幸法勝寺。依修正也。留守之間、高陽院有放火事。数宇殿舎一時焼亡。放火之由有其聞」と見え、『園太暦』文和二年二月五日条には「仙洞火事例」として「貞応二年正月十二日、院御所(高陽院)火事<于時法皇依修正御幸法勝寺>」と記されている。経任は後嵯峨院の信任が篤かったので、その跡を賜ったものと思われる。
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と書かれています。
そうした由緒のある場所を後嵯峨院から賜った中御門経任は「花亭」(華やかな邸宅)を造り、そこに後嵯峨院が頻繁に御幸していたという記述は、経任の権勢についての説明であるとともに、後鳥羽院の怨霊話を引き出すための前提にもなっているようです。
「こえらかにゆゆしき僧」が女房の質問に答えず、「はてはくらりとうせにけり」という話は怪談としてなかなか巧みだと思いますが、この僧侶は後鳥羽院ゆかりの人でしょうから、徳永誓子氏が「刑部僧正長厳の怨霊」(東アジア恠異学会編『怪異学の技法』、臨川書院、2003)で描いた長厳あたりが適任でしょうか。
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