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源彦仁と忠房親王(その2)

2018-02-06 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 6日(火)17時42分8秒

昨年末に『増鏡』の読み直しを始めてから今まで当掲示板に書いてきたことは、私の旧サイト『後深草院二条─中世のもっとも知的で魅力的な悪女について』に記載していなかった内容を含め、大半が既に二十年前に私が形成していた認識です。
しかし、源彦仁と忠房親王について、今回初めて考えたことがあります。
弘安八年(1285)二月末から三月初めにかけて行われた「北山准后九十賀」に関して、『増鏡』にはうんざりするほど長大な記事がありますが、その中に、

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姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。
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という一文があります。
慎重を期すために井上訳を紹介すると、

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姫宮(遊義門院)は紅の匂いの五つ衣十がさね、紅梅の御小袿・萌黄の御ひとえ・赤色の御唐衣・すずしの御袴を召されているが、いつもよりことに美しくお見えになる。この姫宮がおられるだろうと思われる間の方向に、天皇はふだんと違った御目つきで注意して見まもっておられる。
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ということで(『増鏡(中)全訳注』、p299)、文永四年(1267)生まれで十九歳の後宇多天皇が同七年(1270)生まれ、十六歳の姫宮(遊義門院)を異様に強い視線でじっと見ていた、という思わせぶりな記述です。
ついで同年八月十九日、姫宮は後宇多天皇の皇后宮に冊立されますが、この時点では両者の間に婚姻関係はなく、姫宮は後深草院・大宮院と同居していて、いわゆる不婚内親王立后の一例です。
そして、『増鏡』では永仁六年(1298)の後伏見天皇践祚の記事の後に、

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皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へること限りなし。
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とあります。(『増鏡(中)全訳注』、p403)
また、『続史愚抄』の永仁二年(1294)六月二十八日条を見ると、

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今夜、遊義門院<法皇本院皇女、御同座、御年廿五>不知幸所、是新院窃被奉渡于御所<冷泉万里小路殿>云、<或作五条院、謬矣、又作三十日、今月小也、無三十日>後為妃
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とあり、後宇多院による後深草法皇皇女の略取誘拐事件は後宇多院が二十八歳、遊義門院が二十五歳のときに発生したのだそうです。
しかし、不思議なことに略取誘拐の被害者である遊義門院は加害者の後宇多院と一緒に仲良く暮らし始め、二人の婚姻生活は遊義門院が亡くなる徳治二年(1307)まで続きます。
いったいこれは何なのか。
二十年前の私は、「北山准后九十賀」の最中の三月一日に堀川基具女の基子(西華門院、1269-1355)が後宇多天皇皇子(後二条天皇)を生んでいること、しかし、基子の処遇が国母としては極めて薄かったこと、遊義門院が御二条天皇の「准母」とされたこと、「巻十二 浦千鳥」の冒頭に堀川基俊(基具男、西華門院の兄、1261-1319)や万秋門院(一条実経女、1268-1338)が登場する不明瞭・不可解な記事があることから、後二条天皇の母は実は遊義門院ではないかと考えて、その旨を旧サイトに書いてみました。
しかし、遊義門院が「准母」とされた時期など若干の疑問も残っていました。
今回、忠房親王の経歴を少し調べてみて、この人が弘安八年(1285)生まれらしいこと、その急激な昇進は後宇多院と遊義門院の計らいであること、文保三年(1319)に後宇多院の猶子となって「源忠房」から無品親王になっていることを勘案すると、この人こそ後宇多院と遊義門院の子ではなかろうかという疑問が生まれてきたので、もう少し調べてみるつもりです。(※)
なお、三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)という論文を読んでみたのですが、内親王・准母の研究史整理や個別の事実の指摘の面では参考になったものの、三好氏の見解にはほぼ全て賛同できませんでした。
同論文の紹介と批判も後で行いたいと思います。

遊義門院(1270-1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8C%E3%81%84%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

>筆綾丸さん
>理髪役はさほどの高官でなくてもいいのかな
建治三年(1277)時点で堀川具守(1249-1317)は権中納言従二位・春宮権大夫・左衛門督ですから、公卿ですらない園基顕よりはずっと上だと思います。
今上天皇と皇太子という違いもありますね。

堀川具守(1249-1317)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E5%85%B7%E5%AE%88

>二条師忠が名誉な加冠役を務めていますが、御宇多元服の理髪役の記述との整合性はどう考えればいいのだろう

このご指摘には考えさせられたのですが、二条師忠への単純な悪意ないし悪戯心ではなく、後宇多天皇との関係こそが重要なのではないかと考え直してみました。
後宇多天皇元服の場面における二条師忠と(実際には蔵人頭ですらない)「頭中将基顕」の「人たがへ」は、注意深い読者に園基顕と後嵯峨院皇女・月花門院の「密通」記事、そして師忠と後嵯峨院皇女、前斎宮・愷子内親王との「密通」記事を連想させ、その連想が更に後宇多天皇の「密通」を示唆することを狙ったものではないか、というのが現時点での私の考え方です。
いろいろ先走りすぎていて、ちょっと分かりにくいかもしれませんが。

※追記(2022.12.17)
「今回、忠房親王の経歴を少し調べてみて、この人が弘安八年(1285)生まれらしいこと、その急激な昇進は後宇多院と遊義門院の計らいであること、文保三年(1319)に後宇多院の猶子となって「源忠房」から無品親王になっていることを勘案すると、この人こそ後宇多院と遊義門院の子ではなかろうかという疑問が生まれてきた」などと書きましたが、結果的にこれは単なる妄想でした。
遊義門院については、更に考察を重ねているので、興味を持たれた方は下記投稿のリンク先を参照してください。

坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd7067087d8851371b5f7e6fa963f23a


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話休題 2018/02/05(月) 14:45:43
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春宮の御元服、八月と聞えしを、奈良の興福寺の火の事により、のびて十二月十九日にぞせさせ給ひける。十六日にまづ内裏行啓なる。清涼殿の東のひさしに椅子を立てらる。帝も椅子につかせ給ふ。ひきいれの左大臣、理髪春宮権大夫つとめらる。(中略)帝・春宮いづれもいとうつくしき御あげまさりなり。
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後宇多の元服の直後に伏見の元服の記述が続きますが、左大臣は師忠で春宮権大夫は具守なので(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p239以下)、主上と春宮の差異はともかく、理髪役はさほどの高官でなくてもいいのかな、また、総角役の記述がないのはなぜなのか、と思いました。さらに、二条師忠が名誉な加冠役を務めていますが、御宇多元服の理髪役の記述との整合性はどう考えればいいのだろう、とも思いました。

「あげまさり」という語は、記憶では『源氏物語』にはないと思いますが、面白い言葉ですね。
コメント
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