学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)

2018-02-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 8日(木)20時59分3秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p160以下)

-------
 十一日行幸あり。中一日渡らせ給へば、泣く泣くよろづの事を聞えおかせ給ふ。新院も御対面あり。御門は御本性いと花やかにかしこく、御才なども昔に恥ぢず、何事もととのほりてめでたくおはします。世を治めさせ給はん事も、うしろめたからず思せば、聞え給ふ筋ことなるべし。
-------

二月十一日、今上天皇(亀山)の行幸があった。中一日(足かけ三日)滞在されるので、泣く泣く諸事万端のことを申し置きなさる。後深草院とも御対面があった。今上天皇は御性質が大変明朗で賢く、御学才なども昔の天子に恥じず、何事も行き届いて立派でいらっしゃる。天下をお治めになられることも、法皇は御心配なく思われるので、お話しする筋のことも後深草院とは異なるのであろう。

ということで、この部分はかなり微妙な話になります。
井上氏は「申し上げる方面のことも(他の方々への遺言とは)違っているのであろう」と訳されていますが、新院(後深草院)との比較を仄めかす、というかはっきり言っているように感じられます。
この後も『増鏡』は後嵯峨院の遺詔について何度か言及しますが、後深草院に冷たく、亀山院の側こそが後嵯峨院の御遺志に沿った皇統なのだ、という書き方をしています。
この部分は、その初例ですね。
「御門は御本性いと花やかにかしこく、御才なども昔に恥ぢず、何事もととのほりてめでたくおはします」は、その直前に後嵯峨法皇と新院の対面に言及していながら何も記さないことを考慮すると、後深草院の「御本性」が華やかでも賢くもなく、御学才は昔の天子に恥じ、何事も行き届くことがなく、立派でもないように読めてしまいます。

-------
 十七日の朝より御気色変るとて、善智識召さる。経海僧正・往生院の聖など参りて、ゆゆしきことども聞え知らつべし。つひにその日の酉の時に御年五十三にてかくれさせ給ひぬ。後嵯峨の院とぞ申すめる。今年は文永九年なり。院の中くれふたがりて闇に惑ふ心地すべし。
-------

十七日の朝から御容態が変わったというので、高僧を召される。経海僧正・往生院の聖などが参って、仏の尊い教えなどを申し上げるようである。とうとうその日の酉の刻(午後五時~七時)に御年五十三で崩御された。おくり名は後嵯峨院と申すようだ。今年は文永九年である。仙洞御所は一面真っ暗になって、みな闇の中にまどうような気持ちがするであろう。

ということで、ここに後嵯峨院は、四条天皇(1232-42)の頓死という偶発事がなければ全く世に知られることなく終えたであろう人生を、極めて恵まれた形で終えることになります。
『増鏡』と『とはずがたり』では「酉の時」に亡くなったとありますが、何故か『五代帝王物語』では「卯の時」(午前五時~七時)となっています。

-------
 十八日に薬草院に送り奉り給ふ。仁和寺の御室・円満院・聖護院・菩堤院・青蓮院、みな御供仕まつらせ給ふ。内より頭中将、御使ひに参る。三十年が程世をしたためさせ給へるに、少しの誤りなく、思すままにて、新院・御門・春宮動きなく、又外ざまに分かるべき事もなければ、思しおくべき一ふしもなし。なき御跡まで、人のなびき仕うまつれる様、来し方もためしなき程なり。
-------

十八日に薬草院に御葬送申し上げなさる。皇子の仁和寺御室・性助法親王、円満院円助法親王、聖護院覚助法親王、菩提院最助法親王、青蓮院慈助法親王、みなお供申された。内裏からは頭中将・滋野井実冬がお使いに参った。後嵯峨院は三十年間、天下をお治めになったが、少しの間違いもなく、御意志のとおりで、後深草院・今上天皇・東宮(後宇多)と御子孫の系統は揺るぎないので、御心残りのことは一点もない。崩御の後までも人々が靡きお仕えする様は、過去にも例がないほどである。

ということで、『増鏡』作者は後嵯峨院をくどいほど絶賛します。
「頭中将」は滋野井実冬(1243-1303)で、この時三十歳ですね。
実冬は後嵯峨院五十賀試楽の場面に、舞人の一人として登場しています。

「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「巻八 あすか川」(その12)─後嵯峨法皇崩御(その1)

2018-02-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 8日(木)18時31分18秒

それでは『増鏡』に戻って続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p159以下)

-------
 その頃ほひより、法皇時々御悩みあり。世の大事なれば、御修法どもいかめしく始まる。何くれと騒ぎあひたれど、怠らせ給はで年も返りぬ。睦月の初めも、院の内かいしめりて、いみじく物思ひ嘆きあへり。
 十七日、亀山殿へ御幸なる。これや限りと上下心細し。法皇も御輿なり。両女院は例の一つ御車に奉る。尻に御匣殿さぶらひ給ふ。道にて参るべき御煎じ物を、種成・師成といふ医師ども、御前にてしたためて、銀の水瓶に入れて、隆良の中納言承りて、北面の信友といふに持たせたりけるを、内野の程にて参らせんとして召したるに、二の瓶に露程もなし。いと珍かなるわざなり。さ程の大事の物を悪しく持ちて、うちこぼすやうはいかでかあらん。法皇もいとど御臆病そひて心細く思されけり。
-------

その頃から後嵯峨法皇は時々病気になられた。天下の大事なので平癒の御修法などが厳重に開始された。何やかやと騒ぎ合ったが、御治りにならないで年が改まり、文永九年(1272)となった。正月の初めも院の中はひっそりと沈んで、みな心配して嘆き合った。
十七日、亀山殿へ御幸となった。これが最後の御幸であろうと、上下すべての人が心細く感じる。法皇も御輿に乗られる。大宮院・東二条院はいつもの通り一つの車に一緒に乗られる。その車の後ろに御匣殿が陪乗される。道の途中でお召しになる煎じ薬を、和気種成・同師成という医師が御前で調合して、銀の水瓶に入れて、中納言・四条隆良が(薬を奉る役を)承って、北面の武士の信友という者に持たせてあったのを、内野のあたりで差し上げようとして水瓶を召したところ、二つの水瓶にお薬は一滴もない。本当に不思議なことである。これほど大事なものを下手に持ってこぼすなどということはどうしてあろう。法皇も、いちだんと気弱な気持ちになられて、心細く思われたのであった。

ということで、この部分も基本的には『とはずがたり』に拠っています。
「御匣殿」は富小路殿舞御覧に出てきた女性と同一人物と思われますが、誰かははっきりしません。

「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

『とはずがたり』では後深草院は大宮院・東二条院の車とは別の車で同行し、その車には後深草院二条が陪乗していたのだそうです。
また、奇妙なことに『とはずがたり』と『五代帝王物語』では途中で薬を差し上げる役目は中御門経任が担当しているのですが、『増鏡』では四条隆親の末子・隆良となっています。
「隆良の中納言」とありますが、四条隆良は文永九年(1272)時点で正四位下・右少将・越前守であり、権中納言となるのは遥か二十二年後の永仁三年(1294)六月ですね。
しかも、同年十二月にはこれを辞し、翌永仁四年(1295)十二月に死去しています。
ということで、ここに「隆良の中納言」とあるのは非常に不思議で、「いと珍かなるわざ」です。
なお、文永九年(1272)、中御門経任(1233-97)は権中納言従二位・太宰権帥ですから「経任の中納言」ならば正しい表現となります。

-------
 新院は大井河の方におはしまして、ひまなく男・女房上下となく、「今の程いかにいかに」と聞えさせ給ふ御使ひの、行きかへる程を、なほいぶせがらせ給ふに、睦月もたちぬ。いかさまにおはしますべきにか、と、たれもたれも思しまどふこと限りなし。かねてよりかやうのためと思しおきてける寿量院へ、二月七日渡り給ふ。ここへは、おぼろげの人は参らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて法の道ならではのたまふ事もなし。六波羅北南、御とぶらひに参れり。西園寺大納言実兼、例の奏し給ふ。
-------

後深草院は大井河に面した御殿におられて、絶え間なく殿上人や女房、だれかれとなく遣わして、「今の御容態はいかがか」とお尋ね申しなさる、そのお使いが戻ってくる間をも、なおご心配になられておられる。そんな状態で正月も過ぎた。どうなられるのであろうと誰もが思い惑うこと限りない。二月七日、前もって、こういう事態のためにお定めになっていた寿量院へお移りになる。ここへはなみなみの人は参らない。南松院の実伊僧正、浄金剛院長老覚道上人などだけが参上し、御前で、ただ仏の教えのことより他は仰せもない。六波羅探題の北南がお見舞いに参る。西園寺大納言実兼が、例の通り奏上される。

ということで、『とはずがたり』を見ると後深草院二条もお使いの一人となり、「長廊をわたるほど、大井川の波の音、いとすさまじくぞ覚え侍りし」という感想を記しています。
西園寺実兼(1249-1322)は五年前の文永四年(1267)に父・公相に先立たれ、ついで文永六年(1269)、祖父・実氏も死去したので西園寺家の家督と関東申次の地位を承継しており、ここでも関東申次として六波羅探題北方(赤橋義宗、1253-77)と南方(北条時輔、1248-72)のお見舞いを取り次ぐ役となっています。

「巻七 北野の雪」(その12)─「久我大納言雅忠」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d3b8d098bb9a94b965e39d20708597

『とはずがたり』によれば両六波羅の訪問は二月九日ですが、僅か六日後の十五日、「二月騒動」が勃発し、六波羅南方・北条時輔は北方・赤橋義宗に討たれることとなります。
『とはずがたり』と『五代帝王物語』には、六波羅南方の火災を嵯峨から遠望する様子が記されますが、『増鏡』は無視しています。

二月騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95
北条時輔(1248-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%BC%94

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面

2018-02-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 8日(木)12時42分44秒

『増鏡』との比較のために、『とはずがたり』の遊義門院誕生の場面を紹介しておきます。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、講談社学術文庫、1987、p68以下)

-------
 八月にや、東二条院の御産、角の御所にてあるべきにてあれば、御年も少したかくならせ給ひたるうへ、さきざきの御産もわづらはしき御事なれば、みなきもをつぶして、大法秘法のこりなく行はる。七仏薬師、五壇の御修法、普賢延命、金剛童子・如法愛染法などぞきこえし。五壇の軍荼利の法は、尾張の国にいつもつとむるに、このたびはことさら御志をそへてとて、金剛童子のことも大納言申し沙汰しき。御験者には常住院の僧正参らる。
-------

東二条院が三番目の皇女(遊義門院)を生んだのは文永七年(1270)九月十八日ですが、『とはずがたり』は文永八年八月の出来事としており、一年と一ヵ月ずれています。
『増鏡』では後深草院の御所、即ち二条富小路殿で出産があったことは記されていますが、『とはずがたり』では同御所内の別棟、「角の御所」と特定されています。
「御年も少したかくならせ給ひたるうへ」と東二条院が高齢であることが強調されており、確かに数えで三十九歳(『とはずがたり』の記述のように文永八年とすれば四十歳)ですから、相当な高齢出産です。
また、「さきざきの御産」の存在と、それが難産であったこと、『増鏡』では「五壇の御修法」とされていた修法が「五壇の軍荼利の法」であったことも『増鏡』には引用されなかった情報です。
「五壇の軍荼利の法は、尾張の国にいつもつとむるに、このたびはことさら御志をそへてとて、金剛童子のことも大納言申し沙汰しき」は、「五壇の軍荼利の法は、尾張の国の担当であるのが慣例だが、この度は特に御志を添えてということで、金剛童子の方も父大納言が承って手配した」という意味ですが、後深草院二条の父・中院雅忠(1228-72)が尾張の知行国主であるならばともかく、いささか誇張した感じの書き方です。

-------
 二十日あまりにや、その御気おはしますとてひしめく。いまいまとて二日三日過ぎさせおはしましぬれば、誰々も肝心をつぶしたるに、いかにとかや変る御気色見ゆるとて、御所へ申したれば、入らせおはしましたるに、いと弱げなる御けしきなれば、御験者ちかく召されて、御几帳ばかりへだてたり。
 如法愛染の大阿闍梨にて、大御室御伺候ありしを、近く入れ参らせて、「かなふまじき御けしきに見えさせ給ふ。いかがし侍るべき」と申されしかば、「定業亦能転〔ぢやうごふやくのうてん〕は仏菩薩の誓ひなり。さらに御大事あるべからず」とて、御念誦あるにうちそへて、御験者、証空が命にかはりける本尊にや、絵像の不動御前にかけて、「奉仕修行者猶如薄伽梵、一持秘密呪生々而加護」とて、数珠おしすりて、「我、幼少の昔は念誦の床に夜を明かし、長大の今は難行苦行に日を重ぬ。玄応擁護の利益空しからんや」と揉み伏するに、すでにと見ゆる御けしきあるに力を得て、いとど煙もたつほどなる。
-------

このあたりの記述で御験者、即ち「常住院の僧正」が「証空が命にかはりける本尊」の「絵像の不動」を掛けていたこと、『増鏡』での「一持秘密」は「奉仕修行者猶如薄伽梵、一持秘密呪生々而加護」の省略であったこと、「我、幼少の昔は念誦の床に夜を明かし、長大の今は難行苦行に日を重ぬ。玄応擁護の利益空しからんや」と唱えたことが分かります。
『とはずがたり』の具体的記述を、『増鏡』では若干簡略化していますね。

-------
 女房たちの単襲、生絹の衣、めんめんにおし出だせば、御産奉行とりて殿上人に賜ぶ。上下の北面、めんめんに御誦経の僧に参る。階下には公卿着座して、皇子御誕生を待つけしきなり。陰陽師は庭に八脚をたてて、千度の御祓をつとむ。殿上人これをとりつぐ。女房たち袖口を出だして、これをとりわたす。御随身、北面の下臈神馬をひく。御拝ありて、二十一社へ引かせらる。人間に生をうけて女の身を得るほどにては、かくてこそあらめとめでたくぞ見え給ひし。
 七仏薬師、大阿闍梨召されて、伴僧三人声すぐれたるかぎりにて、薬師経を読ませらる。「見者歓喜」といふわたりを読むをり、御産なりぬ。まづ内外「あなめでた」と申すほどに、うちへころばししこそ、本意なく覚えさせおはしまししかども、御験者の禄いしいしは常のことなり。
-------

このあたりも『とはずがたり』の記述を『増鏡』では少しずつ簡略化していますが、列挙の順番を含め、『増鏡』が『とはずがたり』の丸写しであることは明らかです。
なお、「うちへころばしし」は、御産のとき、皇子ならば御殿の棟から甑(こしき。米などを蒸すための土器)を南に、皇女ならば北に転がすという奇妙な慣習があって、今回は皇女だったので「うち」の方、北側に転がしたという意味で、この部分も『増鏡』では省略されています。

さて、『とはずがたり』と『増鏡』を比べると、『増鏡』作者が『とはずがたり』を参照し、ほぼそれを丸写ししたことが明らかですが、何故、皇女誕生という当時の人にとってもそれほど重要ではない出来事を『増鏡』が詳細に記載したのか、その理由が気になります。
『とはずがたり』においては、文永八年(1271)正月に女房として後深草院御所に出仕を始めた後深草院二条が、同年八月に東二条院出産の際の盛儀を見て、「人間に生をうけて女の身を得るほどにては、かくてこそあらめとめでたくぞ見え給ひし」(人間として生まれて、女の身を得るほどならば、こんな盛大な取扱いを受ける身でありたいものと、本当に素晴らしくお見えになったことだった)と思うのはもっともなことです。
しかし、その宮廷女性としての個人的感懐には歴史的重要性は全くなく、『増鏡』作者が何故この場面を『とはずがたり』から大量に丸写ししたのかは、『増鏡』作者を二条良基(1320-88)あたりと考える立場の人にとっては相当に難解な問題なのではないかと思います。
なお、『増鏡』でその誕生が詳細に描かれるのは、大宮院(1325-94)が生んだ後深草院(1243-1304)と、大宮院の妹、東二条院(1232-1304)が生んだ遊義門院(1270-1307)の二人だけです。

「巻五 内野の雪」(その3)─皇子(後深草)誕生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a613506b75317da4462dd596505c60e5

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生

2018-02-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 8日(木)10時28分44秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p150以下)

-------
 かやうのことにのみ心やりて明かし暮らさせ給ふ程に、又の年の秋になりぬ。東二条院、日頃ただにもおはしまさざりつる、その御気色ありとて、世の中騒ぐ。院の内にてせさせ給へば、いよいよ人参り集ふ。大法・秘法のこりなく行はる。七仏薬師・五壇の御修法・普賢延命・金剛童子・如法愛染など、すべて数知らず。
-------

このようなことにばかり心を慰めて楽しく過ごされているうちに、翌年になった。東二条院はかねてからご懐妊であられたが、お産が近くなられたので、世間は大騒ぎとなる。御所(二条富小路殿)でお産とのことなので、いっそう人々が参集する。七仏薬師法・五壇の御修法・普賢延命法・金剛童子法・如法愛染法など、密教の大事な修法や秘密の祈祷が数知れず行なわれる。

ということで、前の場面から素直に読んでいけば「又の年」は文永九年(1272)になるのですが、実際には東二条院(1232-1304)が遊義門院を生んだのは文永七年(1270)九月十八日で、二年のずれがあります。
井上氏は「前の文章からすると文永九年のことになるが、この前々条の、年次がはっきり記されている文永七年の「又の年」(八年)をさすのであろう」(p155)とされていますが、それでも一年のずれがあります。

-------
 御験者には常住院の僧正参り給ふ。八月廿日宵の事なり。すでにかと見えさせ給ひつつも、二日三日になりぬれば、ある限り物覚ゆる人もなし。いと苦しげにし給へば、仁和寺の御室の、如法愛染の大阿闍梨にてさぶらひ給ふを、御枕上に近く入れ奉らせ給ひて、「いと弱う見え侍るはいかなるべきにか」と、院も添ひおはしまして、あつかひ聞え給ふさま、おろかならねば、あはれと見奉り給ひて、「さりともけしうはおはしまさじ。定業亦能転は菩薩の誓ひなり。今更妄語あらじ」とて、御心を致して念じ給ふに、験者の僧正も「一持秘密」とて数珠おしもみたる程、げに頼もしく聞ゆ。御誦経の物ども運び出で、女房の衣など、こちたきまで押し出だせば、奉行とりて殿上人・北面の上下、あかれあかれに分ち遣す。
-------

加持祈祷をなさる人には常住院僧正良尊が参られる。それは八月二十日の宵のことであった。すぐにもお生まれになりそうだったのに、二三日となったので、人々はみな覚束ない気持ちでいる。女院は本当に苦しそうにしていらっしゃるので、仁和寺御室・性助法親王が如法愛染法の大阿闍梨でいらっしゃったが、この方を御枕の近くにお入れ申して、後深草院も「大変弱ったように見えますが、どうなるのでしょうか」と、そばにいらっしゃっていろいろお世話をされる御様子が並み一通りではないので、法親王も御気の毒に思われて、「弱ってはおられますが、お命にかかわることではないでしょう。前世から定まった報いも、仏に祈念することで良い方に転ずることができるというのは菩薩の誓いです。今更偽りはないでしょう」といって御心をこめてお祈りされると、験者の僧正も「一持秘密」と唱えて数珠を押し揉んでいる有様は、本当に頼もしく思われる。御修法の布施の物などを運び出して、女房の衣などをあり余るほど押し出すと、それを修法の奉行が受け取って、殿上人や上北面・下北面の武士たちが手分けして取って、僧たちに分配する。

ということで、このあたりは日付の誤りを含め、『とはずがたり』の丸写しです。
仁和寺御室・性助法親王は後深草院の四歳下の弟で、多くの国文学者により『とはずがたり』の「有明の月」に比定されている人物です。

性助法親王(1247-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%8A%A9%E5%85%A5%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B

-------
 そこらの上達部は階の間の左右につきて皇子誕生を待つ気色なり。陰陽師・巫女たちこみて千度の御はらへつとむ。御随身・北面の下臈などは、神馬をぞ引くめる。院、拝し給ひて廿一社に奉らせ給ふ。すべて上下・内外ののしり満ちたるに、御気色ただ弱らせ給へば、今一しほ心まどひして、さと時雨渡る袖の上ども、いとゆゆし。院もかきくらし悲しく思されて、御心の内には石清水の方を念じ給ひつつ、御手をとらへて泣き給ふに、さぶらふ限りの人、皆え心強からず。いみじき願どもをたてさせ給ふしるしにや、七仏の阿闍梨参りて、「見者歓喜」とうちあげたる程に、からうじて生まれ給ひぬ。
-------

多くの公卿は(正面の)階隠しの間の左右に着座して、皇子誕生を待つ様子である。陰陽師・巫女が大勢立ち込んで千度の御祓いを勤める。御随身や下北面の武士たちなどは諸社に奉納する神馬を引いて行くようである。後深草院は御拝をなさって、それを二十一社に奉納させる。身分が上の者も下の者も、御所の内の者も外の者も、みな興奮して騒ぎ立っているが、女院の御様子はひたすら弱って行かれるようなので、人々はいっそう動揺して、さっと降りかかる袖の上の涙なども不吉である。後深草院も涙にくれて悲しく思われ、御心の内に石清水八幡宮の方をお祈りされつつ、女院の御手を取ってお泣きになると、侍している人々もみな、気強くこらえることができず、涙を流す。それでも非常な御祈願の効験であろうか、七仏薬師法の修法をする阿闍梨が参って「見者歓喜」と声を張り上げた頃に、やっとお生まれになった。

ということで、このあたりも『とはずがたり』のより詳細な記述を若干簡略化してはいますが、ほぼ丸写しです。

-------
 何といふ事も聞こえぬは姫宮なりけり、といと口惜しけれど、むげになき人と見え給へるに、平らかにおはするを喜びにて、いかがはせむと思し慰む。人々の禄など常の如し。法皇も、なかなかいたはしく、やんごとなき事に思して、いみじくもてはやし奉らせ給ふ。いでやと口惜しく思へる人々多かり。
 かかるにしも、実雄の大臣の御宿世あらはれて、片つ方には心落ちゐ給ふも、世の習ひなれば、ことわりなるべし。五夜・七夜など、ことに花やかなることどもにて過ぎもて行く。
-------

皇子誕生の声が上がらないので、ああ姫宮だったのか、と残念ではあるが、一事は命も危ない御様子だったのに女院が無事でいらっしゃるのを喜びとして、姫宮でも仕方ないと後深草院はお気持ちを慰められる。人々への賜り物などは例のごとくである。後嵯峨法皇も、(皇女誕生ということで)かえってお気の毒に、また無事であったことを良かったと思われて、本当に大切になさる。皇子でなくて残念だと思った人々も多かった。
 それにつけても、既に娘に皇子(伏見天皇)が生まれている洞院実雄公の御果報も明らかになって、西園寺家側に皇子が生まれなくてよかったと安心されておられるのも、世の習いであるから、もっともなことであろう。五夜・七夜の産養(うぶやしない)なども、格別に華やかなことなどあって、月日は過ぎて行く。

ということで、大変な大騒ぎであったのに結局は皇子誕生とはならずに終わってしまいます。
この場面では誕生した皇女の名前も出て来ませんが、これは後の遊義門院(1270-1307)です。
東二条院は遊義門院を生む以前に二人の皇女を生んでおり、最初の弘長二年(1262)六月二日生まれの貴子内親王は文永十年(1273)五月十九日に十二歳で死去したものの、この時点では存命です。
また、二番目の皇女は文永二年(1265)十二月十四日に生まれ、夭逝したようです。
『とはずがたり』での遊義門院誕生の場面は次の投稿で紹介します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする