学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その4)

2018-02-22 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月22日(木)13時09分2秒

西園寺家に少し脱線してしまいましたが、鷹司兼平の権勢の限界と亀山院の巻き返しについて話を戻すこととし、本郷氏の見解を確認してみます。
『中世朝廷訴訟の研究』の「第5章 亀山院政─朝廷訴訟の確立─」、「(2)権勢と文書」に入って、本郷氏は南都・春日社関係の文書を検討され、「長者の意志が二段構えで仰々しく南都に伝達される」型式の文書が「使用されているのが鷹司兼平の活躍していた時期であり、それも建治三(一二七七)年頃に集中してみられるのである。兼平の強権は文書形式の上にも反映さるのではなかろうか」と指摘されます。
そして、「それではかかる兼平の権勢は、先にふれた九条道家のそれと、同性質のものだったのか。朝廷は再び、摂関を頂点とする訴訟機構に服していたのだろうか」という問題を提起し、「建治三(一二七七)年に興福寺衆徒は神木を動かして朝廷を威嚇し、悪党化した寺領内の御家人、矢田宗兼を流罪に処することを求めた」事案に関して、

 北条時宗→関東申次西園寺実兼→伝奏中御門経任→亀山上皇

と伝達される文書等を検討した上で、次のように書かれています。

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 関東申次の実兼の役割にまず注目してみよう。かつて同じ申次の立場にあった九条道家は、第三章(5)でみた文書授受の事例からも明らかなように、独自の判断に基づいて関東と連絡を持った。これに対し実兼は、あくまでも上皇の下位に位置し、上皇の意向を奉じる立場にある。伊勢神宮や賀茂社に奉行が置かれていたように、実兼は幕府との交渉を排他的に司るいわば関東奉行として、上皇のもとに統轄されている。そもそも後嵯峨院政が幕府の積極的な援助をうけて発足したという字王によると思われるが、幕府の意向は、何度かの仲介は経ても、最終的には必ず後嵯峨上皇・亀山上皇のもとにもたらされる。そして上皇の働きの重要性を証明するかのように、両上皇は吉田経俊・中御門経任ら特定の側近を用い、身分を越え、西園寺氏を経ずに、武家と直接連絡をもとうとすらしている。
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ということで、ここは前回投稿で紹介したp146の注(37)と同趣旨ですね。
ついで、兼平の権勢の限界についての検討となります。

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 一方、道家の失脚後、摂関は直接に武家と連絡をとりあうことはなくなっていた。武家との交渉権は上皇の手中にあり、朝廷の訴訟制が下す判断を保全するための武力の行使の要請も、上皇によって行われている。鷹司兼平の執政期にもこの関係は変化していない。いかに朝廷内部に勢力を扶植しようとも、諸権門の強訴など外から加えられる現実的な暴力に対しては、摂関である兼平は対処する術をもっていない。立太子問題を抱えているとはいえ、この武家との関係が変わらぬ限り、統治機構としての朝廷における亀山上皇の地位は、摂関に代わられることはなかったのではなかろうか。
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九条道家(1193-1252)の没落は摂関家にとっては大変なショックで、建長四年から弘長元年までと建治元年から弘安十年まで前後二度、合計二十三年の長期間にわたって摂関の座を占めていた鷹司兼平にしても「武家との関係」を取り戻すことはできず、その権勢の最盛期であっても、本当に重要な案件では亀山上皇に譲らざるを得なかったということですね。

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 道家の時期にみられた摂関に直属する諮問機関が置かれていないことで分かるように、兼平はあくまでも伝統的な内乱の地位にとどまり、道家のように自ら評定を開き、また記録所を統轄しようとはしていない。訴訟の制度に即していえば、彼は(それが如何に強力なものであるにせよ)口入を行なう存在にすぎない。これは幕府との独自の連絡を持たぬ摂関の限界を、明らかに示したものであろう。
 兼平は、消去されかけていた内覧の働きを再び活性化させたにすぎず、その限りにおいて訴訟の真の主催者たる上皇の役割を代行していたのである。こうしてみると兼平の権勢のあり方は、制度としての根拠をもたぬ一回的なもの、非常に不安定なものと評価せざるを得ない。たとえば道家の地位と権力は制度の裏づけを有するがために、子息や女婿に譲渡することも可能であった。しかし兼平の権勢は彼個人のあり方に左右される性質のものであり、当然の帰結として、他の何人にも継承させ得なかったのである。
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このように「制度史」と「政治史」を明確に区別するのが本郷史学の要諦ですね。
この観点から本郷氏は鎌倉時代の公家政権をトータルに分析されており、その力強い一貫性が従前の学説とはレベルの異なる強い説得力を生み出しています。
そして、次に鷹司兼平の権勢が衰える時期が問題となります。

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 弘安二(一二七九)年五月十六日、亀山上皇への奏事を行なう時刻が厳密に定められた。同時に伝奏が三番に結われ、交代で任にあたることになった。一番が中御門経任・日野資宣、二番が源雅言・高階邦経、三番が源資平・吉田経長である。奏事の手続きを整えようとするこの努力は、亀山上皇の訴訟掌握への意欲を表している。そしてこれこそは兼平の権勢の衰えを示す事件ではないか。
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ということで、本郷氏は弘安二年(1279)を重視されています。
以上の政治情勢と『とはずがたり』の「近衛大殿」エピソードがどのように関係するのか、あるいは関係しないのか。
非常に難しい問題ですが、次の投稿で検討したいと思います。

>筆綾丸さん
本郷氏も鎌倉時代の公家政権研究から離れて久しいようにお見受けしますが、三十代半ばであれほど緻密な研究をしてしまうと、もう公家はいいや、みたいな気分にはなりそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

海辺のカフカ 2018/02/22(木) 12:48:40
小太郎さん
数年前に海辺の町に転居した折、大半の本は二束三文で処分したのですが、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』は残しておきました。作家は処女作を超えられないではないけれど、本郷氏においても、この書を超えるものはないですね。『中世朝廷訴訟の研究』以外は、あってもなくてもいい、と言えば語弊がありますが、また、紐解いてみます。
コメント
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鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その3)

2018-02-22 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月22日(木)11時36分41秒

前投稿の追記にも書きましたが、本郷氏が「後深草上皇は同じように不遇であった申次西園寺実兼と結んで親王の東宮立坊を幕府に働き掛け、ついにその承認を引き出したという」に付された注(37)を見ると、「(37)『増鏡』第九 草枕」となっていて(p146)、まるで『増鏡』に煕仁親王の立太子に西園寺実兼が関与したと書いてあるように読めますが、『増鏡』にはそのような記述はありません。
『増鏡』の「巻九 草枕」では、まず、

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 本院はなほいとあやしかりける御身の宿世を、人の思ふらんこともすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんのまうけにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をもとどめんとて、御随人ども召して、禄かづけ、いとまたまはする程、いと心細しと思ひあへり。
 大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍びがたきこと多くて、内外、人々袖どもうるひわたる。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞおはします。故院の四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰々も惜しみ聞えしか。東の御方も、遅れ聞えじと御心づかひし給ふ。
 さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり御供仕まつるべき用意すめれば、ほどほどにつけて、私も物心細う思ひ嘆く家々あるべし。かかることども東にも驚き聞えて、例の陣の定めなどやうに、これから東武士ども、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。
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と後深草院が出家の意思表示をしたところ(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p197)、それが幕府にも聞こえ、幕府中枢で議論がなされたと記されます。
後深草院が「出家します」と正式に表明したのは文永十二年(建治元、1275)四月九日で、『続史愚抄』には、

〇九日庚戌。本院被献尊号兵仗等御報書<被辞申由也>。御報書前菅宰相<長成>草。<清書右衛門権佐為方。>中使徳大寺中納言<公孝>。公卿兵部卿<隆親>已下四人参仕。奉行院司吉田中納言<経俊>及為方。仰依皇統御鬱懐可有御楽色故云。異日有不被聞食之勅答。御落飾事。自関東奉停之云<〇増鏡、次第記、皇年私記、歴代最要>。

とあります。
『増鏡』はこの後、北条時頼(1227-63)が非常に立派な人物で、諸国を修行して歩いたという、後の廻国伝説の基となる変なエピソードを挟んだ後、

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 それが子なればにや、今の時宗の朝臣も、いとめでたき者にて、「本院の、かく世を思し捨てんずる、いとかたじけなく、あはれなる御ことなり。故院の御おきては、やうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさざらんに、いかでか忽ちに名残なくはものし給ふべき。いと怠々しきわざなり」とて、新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ。
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【私訳】その子だからであろうか、今の執権時宗朝臣も大変立派な人物で、「後深草院がこのように出家をなさろうとすることは、まことにおそれ多く、お気の毒なことである。故後嵯峨院の御遺詔は深いわけがあるのだろうが、後深草院は大勢の御兄弟の御兄上で、これといった御過失もおありにならないだろうに、どうして急に御出家のようなことがあってよいものだろうか。それはよくないことだ」といって、亀山院へも奏上し、両方の対立を和らげ申して、東の御方の若宮(煕仁親王)を皇太子にお立てになった。

と続けており(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p203)、北条時宗が新院(亀山院)に奏上して煕仁親王立坊を図ったとあるだけです。
「同じように不遇であった申次西園寺実兼と結んで」は本郷氏が『増鏡』以外の史料から導き出した推論のようですね。
その一番の根拠は、おそらく煕仁親王立太子とともに西園寺実兼が東宮大夫になったことだと思いますが(『公卿補任』)、少なくとも『増鏡』には西園寺実兼の直接の関与を示す記述はありません。
なお、注(37)は、万事に緻密な本郷氏にしては少し妙なミスがあります。
p147に、

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 もともと後嵯峨院政が幕府の積極的な援助を受けて発足したという事情によると思われるが、幕府の意向は、何度かの仲介は経ても、結局は後嵯峨上皇・亀山上皇にもたらされる仕組になっている。そしてそれを裏づけるように、両上皇は吉田経俊・中御門経任らの側近を用いて、実兼を経ずに武家と連絡をとろうとすらしている。
 たとえば正元元年六月、関東の使者が御所に参入した。このとき後嵯峨上皇は西園寺実兼ではなく吉田経俊を申次に指名し、使者に伝言の要旨を問い質している(『経俊卿記』正元元年五月二十九日、同年六月一日)。実兼のもとへはこの後経俊が出向いて「仰合わせて」いるにすぎない(『経俊卿記』同年六月一日)。この二日後、関東への返書の下書きを作成した上皇は、経俊にこれを見せて意見を求めた。ところが実兼には「不可然之由有仰」と、見せるのを嫌がっている(「重事であるから」と経俊が強くすすめたために、結局は実兼にみせることになった。『経俊卿記』同年六月三日)。そして文書を清書する段には、やはり経俊しか同席を許されていない(『経俊卿記』同年六月六日)。この他の場合にも、経俊は武家と上皇の連絡に介在しているようである(『経俊卿記』正嘉元年四月二十三日。文永七年三月十一日、後嵯峨上皇院宣、『鎌』九八八七)。彼は上皇の側近として、次の図式、
  上皇─奉行─西園寺氏─武家
の奉行の地位を占めることが多く、その結果、上皇の意によって、右のように西園寺氏を介さずに武家との交渉を持とうとするのではないか。
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とありますが、ここは「文永七年三月十一日、後嵯峨上皇院宣、『鎌』九八八七」を除き、すべて西園寺実兼(1249-1322)の祖父・実氏(1194-1269)が関東申次となっている時期であり、本郷氏は実氏と実兼を混同されていますね。
亀山院(1249-1305)と同年の生まれの西園寺実兼が後嵯峨院(1220-72)から軽く見られるなら理解できますが、後嵯峨院は正室・大宮院の父である実氏に対しても距離を置きたいと考えていたようで、その点が興味深いですね。
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