投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月24日(土)21時59分57秒
東京大学史料編纂所教授・本郷恵子氏の『とはずがたり』論、参考までに若干の解説を付した上で紹介しておきます。(『京・鎌倉 ふたつの王権』、小学館、2008、p302以下)
-------
コラム4 『とはずがたり』の世界
後深草・亀山をめぐる宮廷生活に関しては、前者に仕えて二条と呼ばれた女性の自伝的作品『とはずがたり』に詳しい。二条の父は大納言久我雅忠、母は四条隆親の娘で、父方は大臣まで昇る高い家格を誇り、母方も経済力を蓄えた権勢家であった。彼女は幼いころから後深草の手もとで養育され、文永八年(一二七一)一四歳の春には正式に仕えるようになった。『とはずがたり』は、院や天皇、女院、上級貴族らの私的生活の側面を語る、稀有な内容をもつ。宮廷の奥向きで生活する女性の体験を、しばらく追ってみよう。
-------
『とはずがたり』には確かに「彼女は幼いころから後深草の手もとで養育され」たように書いてあるのですが、内親王でもないのにこのような養育の例は他に見当たらないようで、本当のことなのか私は若干の疑問を抱いています。
-------
後深草は心身ともに強靭さに欠ける人物だったらしく、父の後嵯峨も弟の亀山に期待していたらしい。いきおい、この兄弟は「御仲快よからぬ」間柄であった。しかし幕府が宮廷内の宥和を求める意向を示していたため、両者は意識的に交流の機会をもった。互いの御所を訪問しあい、ぜいたくな遊興をともにしたのである。そのような折に、家柄もよく、容貌や教養にも恵まれた二条は、女房たちのなかの花形的存在であった。さらに彼女は、幼くして母を、出資後すぐに父を亡くしており、母方の祖父四条隆親からも十分な後見を受けられない立場にあった。魅力的なうえにうるさい親族がいない女性は、男性たちからまことに都合のよいものとして扱われたのである。
-------
二条の家柄が良いのはその通りで、教養に恵まれていたこともその文章から明らかですが、容貌に恵まれていたか、「女房たちのなかの花形的存在」だったかについては『とはずがたり』以外に裏づけとなる史料はありません。
もちろん『とはずがたり』の作者は自分が美人であり、粥杖事件などで「女房たちのなかの花形的存在」であった旨を記してはいます。
-------
亀山院は初対面の翌日から求愛の和歌を贈ってくるし、前関白の鷹司兼平も機会を見ては彼女の袖を引く。仁和寺の性助法親王(後深草の異母弟。彼女は「有明の月」と呼ぶ)とは、後白河院の追善仏事の際に出会うのだが、それ以来すっかり思いつめて強引に言い寄ってくる。そのほかに、後深草に侍る前からの恋人西園寺実兼(雪の曙)がいる。いずれも超一流の地位・身分をもつ男性ばかりで、二条の周囲はじつに豪華である。
-------
「有明の月」については本郷氏が採る性助法親王(1247-83)説の他に九条道家の息子、開田准后法助(1227-84)説もあります。
私は「有明の月」は後深草院二条が御所を追放されるに至った経緯を読者に納得してもらうために創作された架空の存在であって、歴史上の人物に結びつけようとする国文学者の努力は無意味と思っています。
-------
ところが、いずれの関係にも後深草が関与しているので、話はややこしい。彼の暗黙の了解、あるいは積極的な後押しにより、彼女の周囲には濃密にもつれた関係が積み重ねられていった。二条の男性関係を操作することで優位に立とうとする後深草の態度は、まことに陰湿・倒錯的であり、屈折した性格の持ち主であることをうかがわせる。一方、彼女に対して積極的に好意を示す亀山の態度は、『源氏物語』の"色好み"の系譜に連なるともみえて、あくまで比較の問題であるが、いっそ気持ちがよい。
-------
「有明の月」との関係は後深草院の「暗黙の了解」に基づいており、鷹司兼平としか思えない「近衛大殿」との関係は後深草院の「積極的な後押し」によるものです。
-------
二条は、後深草とほかの女性たちとの密会の手引きをも命じられる。院の漁色の対象は広範で、前斎宮から遊女まで、つぎつぎと使い捨てにしていく。二条は複雑な立場のわが身を嘆きつつ、院が相手をする女性たちについて、簡単になびきすぎておもしろくないとか、容姿がやぼったいなどの批評を加えることも忘れない。自分の家柄の高さや、男性たちからもてはやされる様子をさりげなく強調するなど、屈折した優越感が随所に現われており、痛々しく感じられるほどである。明確な自我をもった女性であるだけに、胸中の葛藤に出口を与えるために、『とはずがたり』は書かれなければならなかったのだろう。
-------
女房蹴鞠の場面には「二三日かねてより局々に伺候して、髪結ひ、水干・沓など着ならはし候ふほど、傅たち経営して、養ひ君もてなすとて、片よりに事どものありしさま、推しはかるべし」という興味深い表現があり、この「推しはかるべし」から、『とはずがたり』が一定の読者を想定した作品であることは明らかだと私は考えています。
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その2)─女房蹴鞠
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9b4844774e0e7a1976b7ee3933965ef
-------
『とはずがたり』の後半は、宮廷生活を逃れた二条の旅の記録になっている。平安文学の女性たちは、国司となった父や夫に従って行くぐらいしか地方を体験する機会がなかったが、鎌倉時代の女性にはみずから旅するという選択肢が用意されていた。化粧坂から鎌倉の街を見下ろした彼女が、階段状に建物が折り重なっているように見える様子を「袋のなかに物を入れたるやうに住まひたる」と描写したくだりは、鎌倉の景観をよく伝えるものとして、しばしば引用される。二条は、前半の宮廷生活の部分では『源氏物語』を、後半の遍歴については西行を意識して本書を執筆したといわれる。
-------
本郷氏が『とはずがたり』を「自伝的作品」と捉えることと『源氏物語』を意識云々がどのように関係しているのかは必ずしも明確ではありませんが、文章全体の印象からは、虚構の部分の割合はかなり低いものと考えておられるようです。
ちなみに私は「自伝的作品」ではなく「自伝風小説」と思っています。
-------
嘉元二年(一三〇四)、二条は都に戻る。七月には後深草院が崩御。長く宮廷を離れ、尼姿となった彼女は親しく弔問することもできず、院の葬列を裸足で追う。後深草の三回忌をもって『とはずがたり』は閉じられる。
-------
この「院の葬列を裸足で追う」場面は、私には虚構の多い『とはずがたり』の中でも屈指の嘘くさい場面のように思われます。