投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月16日(金)21時59分41秒
続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p338以下)
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さて、風流の鞠をつくりて、ただ新院の御前ばかりに置かんずるを、ことさら、かかりの上へあぐるよしをして、落つるところを袖に受けて、沓を脱ぎて、新院の御前に置くべしとてありし、みな人、この上げ鞠を泣く泣く辞退申ししほどに、器量の人なりとて、女院の御方の新衛門督殿を、上八人に召し入れてつとめられたりし、これも時にとりては美々しかりしかとも申してん。さりながらうらやましからずぞ。袖に受けて御前に置くことは、その日の八人、上首につきてつとめ侍りき。いと晴れがましかりしことどもなり。
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【私訳】さて、美しく飾った鞠を作って、ただ新院(亀山院)の御前に置くだけだと思っていたところ、真似事でよいから鞠壺で鞠を蹴って、落ちてくるところを袖に受けて、沓を脱いで新院の御膳に置くようにとのことで、皆、上げ鞠の役を泣く泣く辞退申し上げたところ、上手な人だということで東二条院の御方の新衛門督殿が特別に上臈八人の中に召し入れられて、上げ鞠の役を勤められた。これも場合によっては面目あることであろう。しかし、うらやましいことではない。袖に受けて新院の御前に置くことは、本院(後深草院)側の女房の筆頭である私が勤めた。とても晴れがましいことであった。
ということで、現代語訳はやらないと書いたばかりですが、この負態(まけわざ)としての女房蹴鞠の場面は『増鏡』の「巻十 老の波」にも出てきますので、少し丁寧に見て行きたいと思います。
まず、「その日の八人、上首につきてつとめ侍りき」で二条が後深草院女房の筆頭であることが分かります。
上臈ではない「女院の御方の新衛門督殿」への差別意識や、「これも時にとりては美々しかりしかとも申してん。さりながらうらやましからずぞ」といった負け惜しみ的な表現がちょっと面白いところです。
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南庭の御簾あげて、両院・春宮、階下に公卿両方に着座す。殿上人はここかしこにたたずむ。塀の下を過ぎて南庭を渡るとき、みな傅ども、色々の狩衣にてかしづきに具す。新院「交名を承らん」と申さる。御幸昼よりなりて、九献もとく始まりて、「遅し、御鞠とくとく」と奉行為方せむれども、いまいまと申して松明を取る。
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【私訳】正殿の南向きの御簾を上げて、両院・東宮(煕仁親王)、階下には公卿が両側に着座する。殿上人はあちらこちらにたたずんでいる。垣根の下を過ぎて南面の庭を渡るとき、みな世話役たちが様々な色の狩衣で介添えに付いて行く。新院が「女房方一人一人の名前を承りたい」とおっしゃる。新院は昼からおいでになり、酒宴も早くから始まっているので、奉行の中御門為方が「遅いですよ。御鞠を早く早く」と責めるけれども、女房たちは「ただいま、ただいま」と申しつつ、(わざと伸ばして)松明をともすまでになる。
ということで、「とくとく」と「いまいま」のやり取りがコミカルです。
なお、「奉行為方」は中御門為方(1255-1306)で、経任の息子です。
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やがて、めんめんのかしづき、脂燭を持ちて、「誰がし、御達の局」と申して、ことさら御前へ向きて、袖かき合せて過ぎしほど、なかなか言の葉なく侍る。下八人より次第にかかりの下へ参りて、めんめんの木のもとにゐる有様、われながら珍らかなりき。まして上下、男たちの興の入りしさまは、ことわりにや侍らん。御鞠を御前に置きて急ぎまかり出でんとせしを、しばし召しおかれて、その姿にて御酌に参りたりし、いみじくたへがたかりしことなり。二三日かねてより局々に伺候して、髪結ひ、水干・沓など着ならはし候ふほど、傅たち経営して、養ひ君もてなすとて、片よりに事どものありしさま、推しはかるべし。
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【私訳】そして、それぞれの世話役が脂燭を持って、「誰それ、何々様の御局」と呼びあげて、特に新院の御前に向かって袖を合わせ、ご挨拶して過ぎるさまは、恥ずかしくて言葉もないほどだ。下臈の八人から順に鞠壺に参って、それぞれの懸りの木のもとに控えている様子は、我ながら珍しかった。まして上も下も男たちが大喜びした様は申すまでもない。私が御鞠を新院の御前に置いて急いで退出しようとしたところ、しばらく召しとどめられて、その姿でお酌を申し上げたのは、全く耐え難いことであった。二三日前から、みなが局々に伺候して、髪を結ったり、水干や沓などを着慣れるようにする間、世話役たちが養い君をもてなすようにめんどうをみて、それぞれの組でいろいろのことがあった様子は御想像にお任せしよう。
ということで、「推しはかるべし」は非常に興味深い表現です。
これは作者が孤独に日記を綴っているのではなく、具体的な読者を想定して『とはずがたり』を執筆していることを示す作家的な表現ですね。
後深草院二条の傅(めのと)は西園寺実兼だったそうなので、実兼が「経営」して、「養ひ君もてなす」ように大切に二条の世話をして、二人の間に色々あった様子も想像せよ、ということなのでしょう。
※追記(2018.4.27)
この場面が『増鏡』にも引用されているとして、「巻十 老の波」の「持明院殿蹴鞠」(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p253)を紹介していたのですが、これは誤りで、正しくは同じ巻の少し後に出てくる次の短い記述が『とはずがたり』のこの場面に対応する箇所でした。
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かやうに御仲いとよくて、はかなき御遊びわざなども、いどましき様に聞えかはし給ふを、めやすき事に、なべて世の人も思い申しけり。ある時は御小弓射させ給ひて、「御負わざには院の内にさぶらふ限りの女房を見せさせ給へ」と新院のたまひければ、童の鞠蹴たるよしをつくりなして、女房どもに水干着せて出されたる事も侍りけり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a73c44fc48292d6ecf3da10ee77fe7ba
誤りの記述において引用していた「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」が登場する場面はこちらです。
「巻十 老の波」(その8)─「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9da95b5daaaca1845c2e80637a4ee1d1
参考、というか戒めのために、過去の誤った記述も以下に残しておきます。
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さて、後深草院二条はこの場面を本当に楽しんで書いていることが伺われ、まあ、宮廷生活の非常に良い思い出だったのでしょうが、この歴史的意義の全く感じられない遊興場面は、何故か『増鏡』にも存在します。
そして、その描写は『増鏡』の方が遥かに詳しくて、
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御かはらけなどよき程の後、東宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、又上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀の御杯、柳箱にすえて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。
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といった具合に、「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」(いかにも上臈ふうに見える久我の太政大臣の孫とかいう人)、即ち後深草院二条に「まらうどの院」(亀山院)が「はかなき御たはぶれなどのたまふ」(他愛のない御冗談をおっしゃる)などと『とはずがたり』に存在していない記述が追加されています。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p253)
『増鏡』作者はこの追加情報をどこから入手したのか、また、このような特定個人以外にとってはどうでもよい話を、何故『増鏡』作者は鎌倉時代全体を通観する歴史物語に採り入れたのか。
私の立場からは答えは簡単ですが、『増鏡』作者を二条良基や丹波忠守と考える人にとっては、これらはかなり難しい問題なのではないかと思います。