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『とはずがたり』・『増鏡』・『徒然草』の関係について

2017-12-07 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月 7日(木)19時42分42秒

先月29日の投稿、「『増鏡』に登場する堀川具親」で紹介したエピソードは、

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天皇は、薄情な女だとは思われるが「つらい思いにとりまぎれず、やはりその人が恋しいこと」というのであろうか、いよいよかわいがりなさるのを、本人はそれほど(有難い)とも思わず、好き心がたえなかったようであるよ。
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というあたりに古いフランス映画風のアンニュイな雰囲気が漂っていて、私はけっこう気に入っているのですが、ここで「堀川の春宮権大夫具親」が仕えているのはもちろん後醍醐天皇(1288-1339)で、具親より6歳上ですね。
そして「春宮」は『兼好法師自撰家集』に登場する邦良親王(御二条天皇第一皇子、1300-26)です。
また、「大納言の典侍」は「万里小路大納言入道師重」の娘ですが、北畠師重(1270-1322)は『とはずがたり』の最終部分、後深草院二条(1258-?)と久我通基(1240-1308)が歌を贈答する場面の直前に、二条から歌を贈られる相手として登場します。
この具親の例のように、『とはずがたり』・『増鏡』・『徒然草』(&『兼好法師自撰家集』)を読み比べると、面白いエピソードの登場人物やその生活圏がけっこう重なるのですが、普通の国文学者は『増鏡』は『とはずがたり』を数多くの参考資料の一つとして採用しただけ、そして『とはずがたり』・『増鏡』の両書と『徒然草』は全く関係がないと考えています。
この点、おそらく唯一の例外が『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』(明治書院、1977)の著者・宮内三二郎氏で、宮内氏は兼好法師が『増鏡』の著者であると力説されたのですが、国文学界では誰の賛同も得られず、宮内氏がこの本を遺著として残して亡くなった後も、宮内説は国文学界では全く無視されています。
私は20年前、たまたま『とはずがたり』を読んで変な話だなと思い、次いで『とはずがたり』が大量に引用されているという歴史物語『増鏡』を読んでみて『とはずがたり』と『増鏡』は同じ人物、即ち後深草院二条が書いているのではないかと疑い、その疑問を解くために国文学の論文はもちろん、鎌倉時代の貴族社会に少しでも関係する歴史学の書籍や論文をひたすら集めて読みまくりました。
暫くして、そうした研究に若干の行き詰まりを感じた頃、気晴らしを兼ねて大学受験期以来久しぶりに『徒然草』を手に取ってみたところ、『徒然草』(&『兼好法師自撰家集』)の登場人物が『とはずがたり』や『増鏡』と結構重なることに驚きました。
そして、私は堀川家の忠実なる「家司」であった兼好が、『とはずがたり』と『増鏡』において堀川家関係者を始めとする自分の知り合いが滑稽に描かれていることに義憤を感じ、宮廷社会の真実の姿を伝えることを目的のひとつとして『徒然草』を書いたのではないか、という暫定的な仮説を立て、あれこれ考察してみたのですが、兼好の人物像がはっきりしなかったので、結局、良く分からないままで終わってしまいました。
今回、小川剛生氏の『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』を読み、あれから二十年、という綾小路きみまろ的感慨を覚えつつ、兼好が堀川家の「家司」ではなかったという事実の持つ意味をじっくり考えてみたのですが、兼好の位置づけを極めて明確にされた小川氏の功績に敬意を覚えつつも、兼好と金沢氏の関係については小川説に若干の新たな知見を付加することができるのではないかと感じました。
また、小川氏の主著である『二条良基研究』(笠間書院、2005)の「終章」に記された『増鏡』の作者論は、私見では多大な問題を含むと思われますが、このまま小川氏の国文学界における権威が確立すれば小川説を批判する人も出なくなり、学問的に非常に不健康な状況になると予想されるので、国文学界とは全く縁もゆかりもない単なる一般人の私ですが、蛮勇を振るって少し小川説を検討してみたいと思います。
なお、私は20年前から自分の研究成果を「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」というタイトルのウェブサイトで公開し、最初の数年間は我ながら何かに憑りつかれたように頻繁に更新していたのですが、さすがに新しい発見も乏しくなったこともあり、自分のネットでの活動の中心を掲示板に移し、当該サイトは更新を怠ったまま放置に近い状態が続きました。
当該サイトでは、鎌倉後期公家社会という一般人には全く縁のない世界を理解してもらうため、参考文献として膨大な数の著書・論文からの抜粋を、まあ、控えめに言って著作権法上若干問題のある形で転載していたのですが、おそらくそれが理由で、当該サイトは2016年正月、NHK大河ドラマ『真田丸』が始まった頃に閉鎖されてしまいました。
それは個人的にはちょっと寂しい出来事だったのですが、ただ、改めて当該サイトの内容を反省してみると、あまりに情報量が膨大になってしまったため、ごちゃごちゃして分かりにくい印象を与えるものだったような感じもします。
鎌倉後期公家社会に関する情報環境も20年前とは相当異なってきて、ちょっと検索すれば『とはずがたり』や『増鏡』に関する詳しい情報も簡単に入手できるようになりましたので、これから行う検討に際しては、他で入手できる情報はそのソースを明示するに止め、あくまで私のそれなりに独自性のある見解を簡明に述べて行きたいと思います。

小川剛生『二条良基研究』
http://kasamashoin.jp/2007/02/post_91.html

>筆綾丸さん
亀田氏も『高師直 室町新秩序の創造者』と『観応の擾乱』の間で学説が変わった訳ではなく、前者では議論の焦点を絞りたくて、概説部分を佐藤説に委ねたのでしょうね。
亀田氏の『南朝の真実 忠臣という幻想』(吉川弘文館、2014)も面白かったので、次は『足利直義』(ミネルヴァ書房、2016)と『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)を読んでみるつもりです。

※(2022.11.29追記)この投稿の時点では、旧サイト『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』がインターネット・アーカイブに転載されていることに気付いていませんでした。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

訓読みと音読みの間にある深い闇 2017/12/07(木) 10:55:46
小太郎さん
『兼好法師』を再読していますが、亀田氏の『高師直 室町新秩序の創造者』も読んでみます。

「第一章 兼好法師とは誰か」を読むと、俗名かよみ人知らずか法名か、入集の条件が厳しく、勅撰集という中世の国家事業は残酷な制度だったのだな、とあらためて思いますね(11頁)。もっとも、そう考えるのは現代人の発想で、中世人には、人が生まれて死ぬのと同じくらい自然なことだったのかもしれませんが。ただ、兼好が俗名を法名にしたのは、つまり、「かねよし」を「けんこう」にしたのは、そんな制度への彼なりの精一杯の嫌がらせだったのではあるまいか、と考えたくもなりますが、たぶん違うでしょうね。
勅撰集には諱を後世に残すテクニックがあるんだよ、なあに、俗名を法名にすればいいのさ、訓読みになるか音読みになるか、と云うごく些細な相違があるだけだから、どうだ、この伝で行ってみるかね、と歌道のお師匠さん二条為世に兼好は説得されたのではないか、と勘繰りたくもなりますが、巻末の年譜に、正和2年(1313)以前に出家とあり、他方、続千載集(1320、成立、二条為世撰進)とあるので(12頁)、残念ながら時系列が合いません。

「・・・医師丹波遠長は北条貞時の、陰陽師安倍有宗は同じく名越公時の祗候人(家人)であった」(21頁)において、「名越」の振り仮名が「なごや」ですが、「なごえ」の間違いですね。

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