学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)

2020-09-20 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月20日(日)15時54分13秒

それでは『太平記』の性格と南北朝期の精神的土壌を考える素材として、『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を少し検討します。
引用は西源院本から行います。(兵藤裕己校注『太平記』(四)、岩波文庫、2015、p58以下)

-------
 この年の八月は、故伏見院の三十三年の御遠忌に相当たりければ、かの御仏事、殊更故院の御旧迹にて取り行はせ給はんために、当今、上皇、伏見殿へ御幸なる。
 この故宮、荒れて久しくなりぬれば、一村〔ひとむら〕薄の野となつて、鶉の床も露深く、庭の通ひ路絶え果てて、落葉まさに蕭々たり。その跡を問ふ物とては、苔泄〔も〕る閨〔ねや〕の夜の月、松吹く軒の夕嵐、昔の秋のあはれまで、今の涙を催せり。物ごとに悲しみを添へ、愁へを引く秋の気色を、導師、富留那〔ふるな〕の弁舌を暢べて、光陰人を待たず、無常の迅速なるに準〔なず〕らへ、数刻宣説し給ひければ、上皇を始め奉りて、旧臣老官悉く、袖を絞らぬはなかりけり。種々の御追善端〔はし〕多くして、秋の日程なく暮れはて、山陰なれば、月の上るを待ちて還御なるに、道遠くして、夜いたく深〔ふ〕けにけり。
-------

「この年」とは康永元年(1342)ですが、伏見院は遡ること二十五年の文保元年(1317)崩御なので、「故伏見院の三十三年の御遠忌に相当た」ってはいません。
作者の記憶違いというよりは、「三十三年の御遠忌」の方が雰囲気が出ていいな、程度の適当さで話を盛っているものと思われますが、それはともかくとして、「当今」は光明天皇(1322~80)、上皇は兄の光厳院(1313~64)ですね。
結局は「笑い話仕立ての話」で終わるこのエピソードは、このようにしっとり・しみじみした雰囲気で始まります。

-------
 折節、土岐弾正少弼頼遠、二階堂下野判官行春、今比叡〔いまひえ〕の馬場にて笠懸射て帰りけるが、端なく樋口東洞院の辻にて御幸に参り合ふ。召次ども、御先に走り散つて、「狼藉なり、何者ぞ。下り候へ」と申しけるを、二階堂下野判官は、聞きもあへず、御幸なりと心得て、馬より下りて蹲踞す。土岐は、元来〔もとより〕酔狂の者なりける上、この比〔ころ〕特に世を世ともせざりければ、御幸の前に馬を懸け居〔す〕ゑ、「この比、洛中にて頼遠なんどを下ろすべき者は覚えぬものを。かく云ふ者は、いかなる馬呵者ぞ。奴原〔きゃつばら〕皆一々に、蟇目負ふせてくれよ」と申しければ、竹林院大納言公重卿、「院の御幸に参会して、何者なれば狼藉を仕るぞ」と仰せられけるを、頼遠、からからと笑うて、「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と云ふままに、三十余騎ありける郎等ども、院の御車を真中に取り籠め、索涯〔なわぎわ〕を回して追物射にてこそ射たりけれ。御牛飼、轅〔ながえ〕を回して御車を仕らんとすれば、胸懸〔むながい〕を切られて軛〔くびき〕も折れたり。供奉の雲客、身を以て御車に中たる矢を防かんとするに、皆馬より射落とされて障〔さ〕へ得ず。剰え、これにもなほ飽き足らず、御車の下簾かなぐり落とし、三十幅〔みそのや〕少々踏み折つて、己が宿所へぞ帰りける。
-------

土岐頼遠は「からからと笑うて」いますが、もちろん笑い話の雰囲気は全くありません。
三十数人の騎馬の郎党が、光厳院の牛車の周囲を縄で囲って逃げられないようにし、文字通り犬追物のように蟇目(大型の鏑矢)を射まくった上、牛飼が轅(牛車を牛につなぐ棒)を回して牛車を動かそうとすると、胸懸(牛の胸から軛にかける紐)を切り、軛(牛の首につける轅の横木)を折ってしまって移動を不可能とし、更に騎馬で扈従する雲客(殿上人)が自分の体で院の牛車に矢が当たるのを防ごうとすると、全員馬から射落として邪魔をさせないようにし、剰え牛車の下簾(簾の内側にかける垂れ布)を引き落として院の姿を丸見えに晒し、最後に念入りにも三十幅(車輪の中心と輪をつなぐ放射状の三十本の棒)を踏み折るというのですから、本当に執拗で嗜虐的な、死者が出ても不思議でないほどひどい乱暴狼藉です。

-------
 聴くやいかに、五条天神は、殿下の御出を聞き給ひて宝殿より下り会ひ、道に畏まり給ふ。宇佐八幡は、勅使の下る度ごとに威儀を刷〔かいつくろ〕うて、勅答を申されき。いかに況んや、聖主、上皇の御幸に、忝なくも参り会ひて、いかなる禽獣なりとも、かかる狼藉を致す者やあるべき。異国にも未だかかる類ひを聞かず。まして本朝には、かつて耳にも触れぬ不思議なり。
 その比は、左兵衛督直義朝臣、尊氏卿の政務に代はつて、天下の権柄を把〔と〕りし時なれば、この事を聞いて、大きに驚嘆せらる。「その罪を論ずるに、三族に行ひてもなほ足らず。五刑に下しても何ぞ当たらん。直ちにかの輩〔ともがら〕を召し出だして、車裂きにやする、醢〔ししびしお〕にやすべき」と、評定ある処に、頼遠、行春等、伝へ聞いて、事悪〔あ〕しとや思ひけん、跡を暗うして、皆己〔おの〕が本国へ逃げ下る。さらば、やがて討手を差し下すべしと、沙汰ありける間、二階堂行春は、首を延べて上洛し、咎なき由を陳じ申しければ、事の次第精〔くわ〕しく糾明あつて、讃岐国へ流さる。
-------

当時、足利直義が「尊氏卿の政務に代はつて、天下の権柄を把」っていて、直義が激怒していることを聞いた土岐頼遠と二階堂行春はそれぞれ本国に逃げますが、もともと二階堂行春は御幸だと知って「馬より下りて蹲踞」していた訳ですから、土岐頼遠と郎党の暴行を止めなかったという非はあってもさすがに死罪は勘弁してもらい、流罪になります。

-------
 頼遠は、自科遁〔のが〕れ難しと思ひければ、美濃国に楯籠もりて、謀叛を起こさんと議しけれども、与〔くみ〕する宮方もなく、同意する一族もあらざりければ、ひそかに京都へ上り、夢窓和尚につき奉つて、「しかるべくは、命ばかりを扶〔たす〕けて給はり候へ」と歎き申しける。夢窓は、天下の大知識にておはする上、殊更当今〔とうぎん〕の国師として、武家の崇敬類ひなかりしかば、さりとも、かれが命ばかりをば申し宥〔なだ〕めんずるものをと思はれければ、様々申されけるを、直義朝臣、「事緩〔ゆる〕に行ひては、向後の積習たるべし」とて、つひに頼遠を召し出だして、六条河原にて首を刎ねらる。
-------

「与する宮方もなく」は興味深い表現で、仮に南朝と連絡が取れれば、頼遠は南朝に下った可能性はありそうです。
また、頼遠に頼られた夢窓疎石(1275~1351)は、「命ばかりをば申し宥めんずるものをと思」って直義を説得しますが、直義は許さず、結局、頼遠は首を斬られます。
夢窓疎石ですら別に死罪にすることはないんじゃないの、と判断したことは、直義の判断が当時の武家社会の常識に反していることを示しているものと思われます。
さて、以上で「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」の半分くらいを紹介しましたが、ここまでは新田一郎氏の言うところの「笑い話仕立ての話」は一切ありません。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「笑い話仕立ての話」(by 新... | トップ | 『太平記』第二十三巻「土岐... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『太平記』と『難太平記』」カテゴリの最新記事