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起請文破りなど何とも思わない人たち(その1)

2022-11-04 | 唯善と後深草院二条

先月30日に放映された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第41回で、一旦は起請文を書き、「一味神水」した上で和田義盛側に付いた三浦義村の一党が北条義時側に寝返る場面がありましたが、その際に既に「一味神水」してしまった起請文の扱いが問題となり、吐き出せばよいだろうという話になっていました。
『吾妻鏡』建暦三年(1213)五月二日条を見ると、

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次三浦平六左衛門尉義村。同九郎右衛門尉胤義等。始者与義盛成一諾。可警固北門之由。乍書同心起請文。後者令改変之。兄弟各相議云。曩祖三浦平太郎爲継。奉属八幡殿。征奥州武衡家衡以降。飽所啄其恩禄也。今就内親之勧。忽奉射累代主君者。定不可遁天譴者歟。早飜先非。可告申彼内儀之趣。及後悔。則参入相州御亭。申義盛已出軍之由。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma21-05.htm

ということで、三浦義村・胤義等は確かに起請文を書いたものの、「一味神水」をしたかどうかは不明であり、また、起請文破りをするに際して特段の行為をしたとも書かれていません。
呉座勇一氏の『一揆の原理』(洋泉社、2012)によれば、

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 だが一味神水は江戸時代の百姓一揆のオリジナルではなく、その歴史は中世に遡る。百姓たちが荘園単位で連合する際に一味神水が行なわれている。たとえば東大寺領の美濃国大井荘(現在の岐阜県大垣市)では鎌倉初期の承元四年(一二一〇)ごろ、新任の下司(下級の荘官)に対し「庄民等一身(味)同心して、起請を書き、神水を飲」んで抵抗したという。要するに起請文を書き、一味神水することで、百姓たちは下司に対抗する一揆を結成できたのである。
 おそらく「一味神水」という言葉の史料上の初見は、文永十年(一二七三)八月十日の関東下知状案(高野山文書)ではないかと思う。高野山領遠江国那賀荘(現在の静岡県湖西市中乃郷)において、百姓たちが預所(承久の荘官)の罷免を要求して、「神水」を飲み「鐘」を突いた。高野山の要請を受けた鎌倉幕府は、この「一味神水」を「罪科」と認定し、首謀者の逮捕を命じている。「一味神水」という術語の出現は、神水を飲む際の作法が定式化したことを示しているのだろう。
 一味神水を行ったのは百姓だけではない。寺僧も「供衆等、一味同心致し、神水に及ぶ」(水木文書)、「神水集会」(『大乗院寺社雑事記』)など、「神水」を飲むことで「一味同心」を実現していた。後述するように、武士たちも一揆を結ぶ際にはしばしば一味神水を行っている。
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とのことなので(p111以下)、時期だけを考えれば、三浦義村等が「一味神水」した可能性もない訳ではなさそうです。
しかし、彼らは起請文を破ることを恐れて、神罰を蒙ることを防止するために何らかの行為をしたのか。
この当時、確実な史料に、起請文破りに際して何らかの行為が行なわれた事例があるかは知りませんが、軍記物などには、別に起請文破りなど全然気にしない人々がけっこう出て来ますね。
少し時代は下りますが、『太平記』第九巻冒頭の「足利殿上洛の事」には、北条高時から起請文の提出を求められた足利尊氏が直義と相談して起請文を提出したけれども、最初から守る気は全然なかった、という話が出てきます。
即ち、後醍醐天皇が隠岐から脱出して船上山で討幕の勢力を募っていることを知った北条高時は足利尊氏に出陣を求めますが、尊氏がズルズルと引き延ばしていたところ、尊氏の叛意を疑った長崎入道円喜が「足利殿の御子息と御台」を人質に取った上で「一紙の起請文」を書かせることを提案し、高時も了解して使者を送ってきます。
尊氏の「鬱陶いよいよ深まりけれども」、もちろんそんな感情を出すことなく使者を返した後、尊氏は弟の「兵部大輔殿」直義に相談しますが、これが『太平記』に直義が登場する最初の場面です。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p38以下)

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 その後、御舎弟兵部大輔殿を呼びまゐらせて、「この事いかがあるべき」と、意見を訪〔と〕はれければ、且〔しばら〕く思案して申されけるは、「この一大事を思し召し立つ事、全く御身のためにあらず。ただ天に代はつて無道〔ぶとう〕を誅して、君の御ために不義を退けんためなり。その上の誓言〔せいごん〕は神も受けずとこそ申し習はして候へ。たとひ偽つて起請の詞〔ことば〕を載せられ候ふとも、仏神、などか忠烈の志を守らせ給はで候ふべき。就中〔なかんずく〕、御子息と御台〔みだい〕とを鎌倉に留め置き奉らん事、大儀の前の小事にて候へば、あながちに御心を煩はさるべきにあらず。公達は、いまだ御幼稚におはし候へば、自然の事もあらん時には、そのために残し置かるる郎従ども、いづくへも懐き抱へて逃し奉り候ひなん。御台の御事は、また赤橋殿さても御座候はん程は、何の御痛はしき事か候ふべき。「大行〔たいこう〕は細謹〔さいきん〕を顧みず」とこそ申し候へ。これら程の小事に猶予あるべきにあらず。ただともかくも相州入道の申されんやうに随ひて、かの不審を散ぜしめ、この度御上洛候ひて後、大儀の計略を廻らさるべしとこそ存じ候へ」と申されければ、足利殿、至極の道理に伏して、御子息千寿王殿と御台赤橋相州の御妹をば、鎌倉に留め置き奉り、一紙の告文〔こうぶん〕を書いて、相模入道の方へ遣はさる。相州入道、これに不審を散じて、喜悦の思ひをなし、乗替〔のりかえ〕の御馬とて、飼うたる馬に白鞍置いて十疋、白覆輪〔しろぶくりん〕の鎧十両引かれけり。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64

尊氏から相談された直義は、起請文など別に心配する必要はない、「天に代はつて無道を誅して、君の御ために不義を退けんため」にする偽りの誓言ならば神も受けないと申し習わされているし、「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」、仏も神も、強い忠義の心をお守りくださらないことがありましょうか、という御都合主義の理論を展開します。
そして、正室と子息を人質の取られようとも、子息は幼児だから万一のときには郎従が抱えてどこにでも逃がせるし、正室は執権・赤橋守時の妹だから幕府も手を出すはずがない、「大行は細謹を顧みず」(大事業を行うときは、些細な慎みは顧みない)と言われているように、起請文や人質といった小さなことは気に懸けず、当面は北条高時の命令にハイハイと従っておいて、上洛した後に大事業を行いましょう、と提案します。
そして、これを聞いた尊氏は「至極の道理」だと感心して、直義の提案をあっさり了解してしまいます。
尊氏・直義兄弟は最初から起請文を守る気がないのに起請文を提出した訳ですから、起請文破りに際して何らかの行為が必要だ、などという発想自体が生ずる余地はなく、実際にもあっさり起請文を破って討幕に邁進した訳ですね。

直義の眼で西源院本を読む(その3)-「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b5374f8ace85c3c3e436561337f53cb

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