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再開に向けての備忘録(その15)

2022-11-02 | 唯善と後深草院二条

田渕句美子氏の「歌合の構造─女房歌人の位置」(『和歌を歴史から読む』所収、笠間書院、2002)という論文を読んでみたところ、注21(p168)に、

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21 「住吉社歌合」「玉津島歌合」に出詠した安嘉門院三条の歌が、『閑月和歌集』一〇〇と『新続古今集』二〇四に、式乾門院御匣(源通光女)の歌として見えており、井上宗雄氏『鎌倉時代歌人伝の研究』(風間書房、一九九七年)は、「安嘉門院三条とは、身分の高い御匣の隠名の可能性がある」と指摘する。
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とありました。
そこで井上著を見たところ、「第三章 御子左家の周辺」の「三 安嘉門院とその女房たち─阿仏尼序説─」に関連の記述がありました。

『鎌倉時代歌人伝の研究』
https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=255

まず、第三節の冒頭に、

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 安嘉門院参仕の女房は、尊卑分脈・歌集類・十六夜日記等から、次の名が知られる。

  園基氏女
   安嘉門院二条 母隆忠女、公相公妾
   安嘉門院近衛 母同 公基公女
   安嘉門院女房三条局 母同 大相国通雅公妾
  葉室定嗣女 安嘉門院女房
  藤原為継女 安嘉門院大弐 実任卿母
  平度繁女 安嘉門院四条
  出自未詳 二条殿
  長有妹 安嘉門院甲斐
  久我通親親縁女 安嘉門院高倉
  久我通光女 式乾門院御匣(三条?)
  藤原定家女(後の後堀河院民部卿、典侍因子)
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と、女房リストが挙げてあり(p238以下)、女房の説明が続いた最後に次の記述があります。(p243以下)

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 さて、次に安嘉門院三条と式乾門院御匣との事を記して、(阿仏尼を別として)終わりとしたい。
 十六夜日記に(鎌倉に到着して京の人々と便りを贈答した記事の中に)、

  式乾門院の御匣殿ときこゆるは、久我の太政大臣(通光)の御女、これも続後撰より
  うちつづき二たび三たびの集にも、家々の打聞きにも、歌あまた入り給へる人なれば、
  御名も隠れなくこそは。今は安嘉門院に御方とて侍ひ給ふ。東路思ひ立ちし、あすと
  てまかり申しの由に、北白河殿へ参りしかど見えさせ給はざりしかば……

とあって、かつて式乾門院(安嘉門院の同母姉、利子内親王。建長三年没)に仕えた通光女御匣が、十六夜日記の頃(弘安二年前後)には安嘉門院に仕え、北白河殿に侍していたことが知られる。御匣は続後撰以下・現存和歌六帖・秋風抄・秋風和歌集・万代集の作者で、宝治百首の人数にこそ入らなかったが、建長初頭にはかなり著名な歌人であった。但し生年を推測する手がかりは殆どなく、その歌人としての活躍ぶりから、建長初頭に二十五歳にはなっていたであろうこと、もし貞永ごろに二十歳になっていたら新勅撰に入っていたであろうことから、その頃はまだ幼く、多分一二二〇年代前半(貞応~嘉禄前後)の生れではないかと推測する。御匣殿というのは最高級の女房で、式乾門院没後の某年、安嘉門院に仕えたが、最高の、別格扱いの女房であったであろう。
 さて、弘長三年三月に住吉社・玉津島社両度の歌合が行なわれたが(『中世歌合集と研究』上、『新編国歌大観』10)、ここに安嘉門院三条という作者がみえている。そして住吉社歌合十二番右、三条の「ゆく春のわすれかたみにすみの江のきしの藤浪いまやさくらん」が、新続古今二〇四に式乾門院御匣として入集している。これによって、両歌合の安嘉門院三条が式乾門院御匣であろうという推察が一応できるのだが、御匣が安嘉門院に仕えて三条と名乗った証は外にない。御匣は勅撰集の最後まで、また文永二年八月十五夜歌合・閑月集・源承和歌口伝・夫木抄・女房三十六人歌合・現存卅六人詩歌、みな式乾門院御匣の名でみえている。そもそも三条という女房名は上﨟ではあっても、格はそう高くない。御匣の姪の後深草院二条が、永福門院の入内に当って三条となったのを嘆いた記事は有名である(増鏡、さしぐし)。御匣が三条と名のることはまずあるまい(上述の基氏女三条局か。但しこれは歌人ではなさそうだ)。
 新続古今は時々古い時代の女房名を間違える(例えば正治二年石清水若宮歌合の皇太后宮但馬を新続古今七一九は藻壁(ママ)門院但馬としている)。つまり新続古今の誤りという可能性が一つはある。しかし三条は両歌合とも右方の筆頭で、すべて左方筆頭の為氏と番えられている点から、相当な手練の歌人と思われ、他に記録のみえない三条が本名であったとは思われない。つまり新続古今は何か然るべき資料によって三条を御匣と認定したので、安嘉門院三条とは、身分の高い御匣の隠名の可能性がある、とも考えられる(『中世歌合集と研究』では、三条=御匣説を採る)。今、私は隠名説を無視できないでいるが、基氏女のように三条局を名乗る人もおり、なお今後とも確実な資料を求めたい。
 御匣は建長三年以後の某年、安嘉門院に仕え、おそらくは女院の没する弘安六年まで使えていたのではないかと思われる(四十九日に為信との贈答歌が玉葉集二三二六にみえる)。
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「身分の高い御匣の隠名の可能性がある」の「隠名」には傍点が振ってあります。
『新続古今和歌集』は永享十一年(1439)に成立した二十一代集の最後の勅撰集で、式乾門院御匣が生きた時代より百数十年経っていますから、「新続古今の誤りという可能性」も勿論あります。
しかし、「三条は両歌合とも右方の筆頭で、すべて左方筆頭の為氏と番えられている」ことは重要であり、「安嘉門院三条とは、身分の高い御匣の隠名の可能性がある」と考える方が良さそうです。
そうであるならば、久我通光の孫であり、「御匣の姪の後深草院二条」が、御匣の「隠名」の例を参考に、「昭慶門院二条」を「隠名」として用いた可能性も充分ありそうですね。

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba239fca9ea719a85c4aa76e98c8ccb0
『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5791299ad2965b39de2ab7760bdd9f2d
『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/838bb1486a3f2e4acdf2277abdf95c46

また、「万秋門院二条」もちょっと怪しい感じがします。

2022年10月の中間整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2ed41f2928da909b6de4923c2cb8eb6

ちなみに「御匣の姪の後深草院二条が、永福門院の入内に当って三条となったのを嘆いた記事」はこちらです。

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出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9323efa6ef04bb9fc49ec314813ddc23

http://web.archive.org/web/20150918011114/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-nyogojudai-1.htm

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