学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

起請文破りなど何とも思わない人たち(その2)

2022-11-05 | 唯善と後深草院二条

建暦三年(1213)の和田合戦より前だと、起請文破りなど何とも思わない人としては土佐房昌俊が有名ですね。
呉座氏も『一揆の原理』において次のように書かれています。(p121以下)

-------
 壇ノ浦の戦いで平家を滅した源義経は、やがて兄の源頼朝と対立し、鎌倉にいる頼朝から刺客を送られる。刺客の土佐房昌俊は京都に到着するが、そのことを知った義経は武蔵坊弁慶に命じて昌俊を連れてこさせる。自分を討ちにきたのではないかと詰問する義経に対し、昌俊は「一旦の害をのがれんがために、居ながら七枚の起請文をかいて、或〔あるいは〕やいてのみ、或社に納〔おさめ〕などして」潔白を訴えた。これにより昌俊は釈放されたが、その夜には義経邸を襲撃する。彼もまた「神をも恐れぬ」大ウソつきだったのである。
 この土佐房襲撃事件は軍記物『平家物語』などに見える逸話で、どうやらフィクションらしいが、起請文の利用法という点に関しては、当時のあり方を反映していると考えられる。なぜ七通も作成するのかはよく分からないが、これだけ多数の起請文を作成しているのだから、焼いて飲んだり神社に納めたりするだけでなく、当の義経にも手渡されたはずである。
-------

『新日本古典文学大系45 平家物語 下』(岩波書店、1993、底本は東大国語研究室蔵本(高野辰之氏旧蔵))の「巻第十二 土佐房被斬〔とさぼうきられ〕」を見ると、梶原景時の讒言を信じた頼朝は「土佐房正俊」を召して「和僧のぼッて、物詣するやうにて、たばかッて討て」と命じます。
そして京都で義経から糾問されると、次のような展開となります。(p348以下)

-------
正俊大に驚て、「何によッてか、唯今さる事の候べき。いさゝか宿願によッて、熊野参詣のために罷上ッて候」。そのとき判官の給ひけるは、「景時が讒言によッて、義経、鎌倉へも入られず、見参をだにし給はで、追ひ上せらるゝ事はいかに」。正俊、「其事は、いかゞ候覧。身にをいては、まッたく御腹くろ候はず。起請文をかき進べき」よし申せば、判官、「とてもかうても、鎌倉殿によしと思はれたてまッたらばこそ」とて、以外けしきあしげになり給ふ。正俊、一旦の害をのがれんが為に、居ながら七枚の起請文をかいて、或〔あるいは〕やいてのみ、或社に納〔おさめ〕なンどして、ゆりてかへり、大番衆にふれめぐらして、其夜やがてよせんとす。
-------

この話を宗教的観点から見ると、まず、土佐房昌俊(正俊)は、いくら僧兵とはいえ、一応は仏に仕える身であるはずの僧侶ですね。
また、頼朝から物詣で上京したように偽装しろと言われた昌俊は、義経には自分が上京した目的は「熊野参詣」のためだと言います。
そして、昌俊は自分から起請文を書くと言い出し、「一旦の害をのがれんが為に」七枚もの起請文を書く訳ですね。
どのような様式の起請文かは書かれていませんが、「熊野参詣」が目的だそうなので、熊野牛玉宝印の裏に書くパターンでしょうね。
さて、義経は「磯禅師といふ白拍子のむすめ、しづかといふ女を最愛」していますが、静は怪しい気配に気づき、「あはれ是はひるの起請法師のしわざとおぼえ候」と思って「六波羅の故入道相国の召しつかはれけるかぶろ」をスパイとして三・四人派遣したところ、そのうちの二人が昌俊の宿所の門前で殺されてしまいます。
そこで義経が用意万端、昌俊を待ち構えていたところ、昌俊一味の「ひた甲〔かぶと〕四五十騎」が押し寄せて来て戦闘となり、「土佐房たけくよせたりけれども、たゝかふに及ばず、散々にかけ散らされて、たすかるものはすくなう、討らるゝものぞおほかりける」という事態となり、昌俊は鞍馬に逃げるものの、捕まってしまいます。
そして、

-------
 正俊を大庭にひッすへたり。かちの直垂に、すッちやう頭巾をぞしたりける。判官わらッてのたまひけるは、「いかに和僧、起請にはうてたるぞ」。土佐房すこしもさはがず、居なをりあざわらッて申けるは、「ある事にかいて候へば、うてて候ぞかし」と申。「主君の命をおもんじて、私の命をかろんず。心ざしの程尤神妙なり。和僧命おしくは、鎌倉へ返しつかはさんはいかに」。土佐坊、「まさなうも御諚候ものかな。おしと申さば殿はたすけ給はんずるか。鎌倉殿の、「法師なれどもをのれぞねらはんずる者」とて、仰かうぶッしより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかはとり返し奉るべき。唯御恩にはとくとく頸をめされ候へ」と申ければ、「さらばきれ」とて、六条河原にひきいだいてきッてンげり。ほめぬ人こそなかりけれ。
-------

ということで、義経が笑いながら「坊主、いかにも起請文を破った罰が当たったな」と言うと、昌俊は少しも騒がず、居直り嘲笑って「あることないこと適当に書いたので罰が当たったのでしょうな」と返答します。
そして義経が「主君の命令を重んじて、自分の命を軽んずる志は立派なものだ。命が惜しかったら鎌倉へ帰してやるが、どうだ」と聞くと、昌俊は「とんでもないことをおっしゃいますな。鎌倉殿から「法師であってもお前こそ義経を狙える者だ」とのお言葉を戴いて以来、既に命は鎌倉殿に差し上げています。今さらなんでその命を自分の方へ取返しなどできましょう(命惜しさに許されれば、鎌倉殿に命を捧げた誓約に背くことになります)。もし私に温情をかけて下さるなら、早くこの首を取ってください」と答え、六条河原で斬られます。
義経も多少は嫌味を言いますが、実際には起請文を破ったなどというチマチマした罪は全く問題にしておらず、それは昌俊も同様です。
昌俊にとっては主命を遂行することが最も重要であって、そのために必要があれば起請文など何枚でも書き、平気で破る訳で、起請文などよりは主君・鎌倉殿との誓約の方が遥かに大事です。
そして、昌俊は主君との誓約を守るために自分の命を軽んずることを誇りとしており、その態度は義経のみならず世人からも賞賛され、「ほめぬ人こそなかりけれ」でこのエピソードは終わります。
呉座氏も言われているように、このエピソードは史実ではないでしょうが、起請文破りを正当化する一つの論理を示している点で興味深いですね。
即ち、僧兵を含め、武士にとって重要なのは主君との約束を守ることであり、それに比べれば起請文、即ち神や仏との約束など遥かに価値の劣るもので、いくらでも破ってよいのだ、という論理です。

土佐房昌俊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%9D%8A%E6%98%8C%E4%BF%8A

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 起請文破りなど何とも思わな... | トップ | 起請文破りなど何とも思わな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

唯善と後深草院二条」カテゴリの最新記事