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「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」という噂の出所

2018-12-23 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月23日(日)13時38分19秒

宇野脩平に関しては、亡くなった二年後の1971年、和歌山県粉河町の「宇野脩平先生追悼録会」から『宇野脩平先生追悼録』が出ていて、また、橘川俊忠氏に「文書館にかけた夢─宇野脩平の人と業績」(神奈川大学日本常民文化研究所編『歴史と民俗』19号、2003)という論文があるそうですが、ともに旧制一高時代の共産党活動については、あまり詳しい記述は期待できそうにないですね。
他方、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という網野の発言は、今谷明が網野と「よく飲み歩いた」際に聞いたという「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を担っていた云々という話よりは信頼性がありますが、では、網野はこの話を誰から聞いたのだろうか、という疑問が生じます。
なかなかの難問ですが、旧制一高という学歴エリートが集う非常に狭い空間での、しかも治安維持法下の非合法活動に関係する話ですから、信頼できる情報源は自ずと限られますね。
そして、「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」には、若干のヒントになりそうな記述があります。
網野によれば、日本常民文化研究所月島分室が行なった、宇野脩平をリーダーとする漁村資料の蒐集・整理事業は、水産庁のバックアップの下、当時としては潤沢な予算を得て活動しており、網野ら常勤の研究員以外に、蒐集した資料を筆写するため、多数のアルバイトを雇っていたそうです。(『網野善彦著作集』第18巻、p129以下)

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 この筆写をした方には、有名な歴史家が非常に多いのです。佐藤進一さん、長倉保さん、佐々木潤之介さん、岡光男さん、須磨千頴さん、稲垣敏子さん、能の研究者として有名な戸井田道三さんも筆写しています。坪井洋文さんの奥様のお父様、坪井鹿次郎さんなど、この筆写者のリストを作ると、当時のいろんな人間関係がわかってきます。確か杉浦明平さんも筆写していると思います。筆写料が多少ともよかったので、アルバイトとしてかなりの数の、また優秀な筆写者を組織できたのです。それが公称三十万枚という厖大な筆写本になって現在まで残っているのです。
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ここに登場する人物の中で、作家の杉浦明平はおよそ「有名な歴史家」とは言い難い人ですが、1931年に一高に入学した宇野脩平の同級生として出てきた、「丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバー」(p118)に含まれます。
何で杉浦明平が漁村資料の筆写などをやっていたのかは分かりませんが、まあ、旧知の宇野から割の良いアルバイトを紹介してもらった、ということなのでしょうね。

杉浦明平(1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E6%98%8E%E5%B9%B3

そして、更に読み進めると、もう一人の一高の同級生が登場します。(p131)

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五 事業の行き詰まりと月島分室の解体

 そういう状況で、さきほどもいいましたように、全国にわたって数百万点の文書が借用、寄贈され、月島分室の一室は全部、文書のつめこまれたリンゴ箱でうずめつくされるという事態になったわけです。一九四九年、五〇年、五一年、五二年までは調査も非常に活発で、研究所の仕事も前向きだったのです。しかし私はこの頃は最も不誠実な研究員でしたが、五三年に入りますと、予算の打ち切りもなんとなく切迫してきたという感じもしてきましたし、仕事上も矛盾だらけなことが明白になってきました。すべてを採訪して、一点ずつ整理するという方針で仕事をしていたら、矛盾は到底解決できない、仕事は山積するばかりではないか、それからまた整理に追われて自分の勉強がまったくできない。これはどこの研究所でも問題になることだと思いますけれども、研究所の日常の仕事と自分の研究との間の矛盾もでてきました。こうしたさまざまな問題が研究員たちのなかで五三年頃に表面化します。
 それまで研究所の仕事の水産庁への報告の意味で『漁業制度資料目録』をつくってきたのですが(これは明石博隆氏がガリ版でプリントされたものです)、この目録のつくり方自体、方針が極めて曖昧だという批判が起こり、宇野さんの方針に対するきびしい批判が出てきました。【後略】
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ということで、明石博隆(1914-78)の名前が出てきます。
p157以下に「資料6」としての1951年6月付「漁業制度資料の調査保存について」が載っており、「四 資料の調査保存の仕事は誰がおこなうか」には、財団法人日本常民文化研究所の名簿(桜田勝徳所長以下14名)、同研究所の漁業制度資料収集委員会の名簿(宇野脩平以下18名)、「各種連絡、資料の整理、複写、保存の仕事」にあたる者の名簿(宇野脩平以下17名)がありますが、明石はどこにも登場せず、明石がどのような資格で『漁業制度資料目録』を作っていたのかは分かりません。
多くの研究員から批判が噴出した「宇野さんの方針」に沿って『漁業制度資料目録』を作成していた明石には『昭和特高弾圧史』全八巻(太平出版社、1976~77)という編著がありますが、佐藤進一以下の「有名な歴史家」とは異質な人物で、研究者というよりは社会運動家に分類される人ですね。
そして、渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律スパイ説の崩壊』(五月書房、1993)によれば、杉浦明平は明石を「戸谷〔敏之〕の検挙に伊藤律が関わっているという噂」の出所だとしています。(p143)
ということで、網野に「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」と言った人物として、伊藤律の同級生であり、一高の共産主義運動の内情に詳しく、かつ伊藤律に敵意を持っていた明石博隆が捜査線上に浮上してきたのであります。
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