学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「伊藤律がすぐ私のもとにやってきて、私の思想調査のようなことを……」(by 小野義彦)

2018-12-21 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月21日(金)11時34分4秒

網野の「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という発言、私にはどうも疑わしいような感じがするので、一高時代の伊藤律と宇野脩平に言及している文献を探したのですが、今のところ小野義彦(大阪市立大学名誉教授)の『「昭和史」を生きて』(三一書房、1985)くらいしか見当たりません。

小野義彦(1914-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%BE%A9%E5%BD%A6

小野義彦は「伊藤律とは第一高等学校で、同じ文科甲類の一年ちがいの同窓生」(p25)という関係です。
同書から、まずは時代の雰囲気を感じさせる部分を少し引用してみます。(p25以下)

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 さて、私が第一高等学校に入りましたのは一九三一年(昭和六)四月、仙台二中からであります。一年のときは文学青年で、ロシア文学に熱中していました。新潮社の『世界文学全集』なども続篇までほとんど読んだことなど自慢していました。別に左翼的な学生では決してありませんでした。
 しかし、その頃から、店頭に派手な表装でならんでいるブハーリンの「史的唯物論」がいい本だということを聞いて読んでみたのですが、さっぱりわかりませんでした。
 はじめてマルクス主義というものがわかったような気がしたのは、河上肇の『第二貧乏物語』を読んでからでした。もう一つは太田黒訳の××(伏字)だらけの『共産党宣言』です。当時は検閲で、まともな翻訳がなかったので、英語の本を東大赤門前の島崎書店─のちに作家となった島木健作が、この書店主でした─で購入して勉強しました。ニューヨークのバンガードプレス社の『エッセンシャルズ・オブ・マルクス』という選集ですが、これは「マニフェスト」などマルクスの主要著作で入門的なものを、コンパクトに一冊にまとめてあるもので、これを読んで私は、はじめて世界がひっくりかえるような衝撃を受けました。一高二年の春頃だったと思いますが、この本は今でも大切に保存して、時々読み返しては、自分自身の思想遍歴の原点を考えてみています。
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小野の父は陸士第15期の高級軍人で、1932年1月に始まった上海事変では金沢第九師団の敦賀旅団長として出征しますが、敦賀旅団はチェコ製機関銃を持つ一九路軍に圧倒され、多数の犠牲者を出したそうですね。

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 それで親父らの軍隊は大きな損害をうけて撤退したわけですが、その年の三月、私は第一高等学校の一学年を終了して、敦賀の町に帰っていました。その敦賀は、町中日の丸の旗の下に、喪章をつけた半旗におおわれていまして、父が町に帰ってきて重々しい空気のなかで、慰霊祭が行われるなど、私は大変ショックを受けました。
 新学年になって学校へ帰ってから、私はその敦賀でのことを校内新聞(当時、伊藤律が編集に参加していた『広陵時報』)に、「慰霊祭」という題のコントとして投稿したところ、これが評判になって、伊藤律がすぐ私のもとにやってきて、私の思想調査のようなことをやられたのを覚えています。
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ということで、伊藤律が登場します。
小野は伊藤律とウマが合わなかったようで、伊藤律の描写は一貫して冷ややかですね。

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 私はその時までに、マルクスの本の若干は読んでいたといても、まだはっきりしたマルキストではなかったので、律は私をオルグするつもりだったのでしょう。彼は私の思想があいまいだとか、矛盾だらけだとか、しきりに先輩風を吹かせて、私を批判しました。その態度がひじょうに押しつけ的だったので、私はその時から彼を警戒し、彼との接触をできるだけ自分から避けるようにしたと思います。
 全寮制だった一高で、私は西寮五番という部屋にいまして、同じ部屋には、のちに有名になった立原道造という詩人がおり、フランス語の詩を、ペラペラ朗読などしていました。そのまた隣の西寮七番には、水泳部の選手が多く入っていましたが、当時一高では、この水泳部と柔道部が左翼の巣だったのです。一年先輩の伊藤律よりは、むしろ又隣りの西寮七番の水泳部の連中の方が明るく、いろんなことを教えてくれたり、人間的にも親しみを感じましたので、私はむしろ西寮七番の連中とつきあうようになりました。そんな関係から校内の非公然新聞『自由の柏』の存在を知り、その読者になりました。【中略】
 そういう形で、昭和七年(一九三二)の春から、私は左翼運動に関係をもつようになりました。
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ということで、伊藤律の名前は何度も出てきますが、宇野脩平は登場しません。
この後、小野は当時の一高における中途退学者の数を列挙し、「党の全盛期と、その後の崩壊期を、実によく反映している数字だと思います」(p29)と述べます。
そして、その次にやっと宇野脩平が登場します。

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 当時一高を中退せず卒業して東大などに進んだ人たちの中にも現在進歩的な仕事をしている知名の人たちがいます。私の一級上には作家の杉浦明平氏や東大教授になった磯田進氏がおり、戦死した平沢道雄君は東大時代にすぐれたマルクス経済理論家として頭角をあらわしていました。また中退組でも戦後に早死にした戸谷敏之、宇野脩平、明石博隆の諸君は、それぞれ思想的な面で戦後の運動に無視できない足跡をのこしました。二~三回の留年で私と同級になった森敦氏は芥川賞の小説を書いて今ではよく知られています。
 私は昭和六年入学組の中途退学者ですが、伊藤律の場合は一年先輩ですから、昭和五年入学組の中退者に属します。この中退者のすべてがマルキストだったというわけではありませんが、大部分が検挙による退学処分ないし放校処分者です。
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うーむ。
一高の左翼事情に詳しい小野は、「それぞれ思想的な面で戦後の運動に無視できない足跡をのこし」た三人の中の一人として宇野脩平に言及しているだけなので、網野の言うように「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」かは疑問です。
また、網野は宇野脩平が「当時、一高に組織された日本共産青年同盟(共青といいます)のキャップになったと聞いています」と言いますが、小野著にはそのようなことは一切出て来ませんし、私の狭い探索の範囲ではありますが、今のところ他にそのような事実を述べている文献も見当たりません。
網野の宇野情報は些か怪しいですね。
なお、「戦後に早死にした戸谷敏之」は変だなと思いましたが、ウィキペディアを見ると、戸谷は「1945年(昭和20年)9月、フィリピンにて敗走中に戦死」とのことなので、不正確ではないようですね。
また、明石博隆は『昭和特高弾圧史』全八巻(太平出版社、1976~77)の編者の一人ですが、この人については丸山眞男が「明石博隆君のこと」というエッセイを書いているそうなので(『丸山眞男集』第11巻、岩波書店、1996)、宇野脩平への言及がないか、後で確認してみるつもりです。


※(追記)伊藤律と小野義彦との間には深刻な確執があり、小野の伊藤律に対する評価は極めて厳しいものになっている。

網野善彦を探して(その14)─「アカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏」(by 犬丸義一)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55df5fe0ededf1647343b74dda223146
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