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酒井シヅ『病が語る日本史』

2018-12-11 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月11日(火)20時28分21秒

製糸工女と結核の関係について参考になるかな、と思って酒井シヅ氏(順天堂大学名誉教授、日本医史学会元理事長、1935生)の『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2008)をパラパラと眺めてみたのですが、些か微妙な記述がありました。

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古来、日本人はいかに病気と闘ってきたか。 縄文人と寄生虫、糖尿病に苦しんだ道長、ガンと闘った信玄や家康……。糞石や古文書は何を語るのか。〈病〉という視点を軸に日本を通覧する病の文化史・社会史。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151477

同書「第3部 変わる病気像」の「2 死病として恐れられた結核」では、

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 結核は先史時代から人類を苦しめてきた。二十世紀半ばに抗結核剤が発見されるまで、結核は死病として恐れられてきた。それだけに結核が治る病気になったときの喜びは大きかった。
 結核の恐ろしさは、いつ感染したのか、すぐわからないことにある。症状が現れるまでに時間がかかり、その間に周囲の人に結核菌をばらまいているからだ。これはいまも昔も変わらない。結核の歴史はこの病気との闘いが一筋縄でいかないことを語っている。
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と前置きした上で(p259)、次のような節に分けて、結核の歴史が説明されます。

1 「結核の病名」
2 留学生と結核
3 社会と結核
4 『女工哀史』と結核
5 小説『不如帰』と結核

1 では『枕草子』『源氏物語』『好色一代女』などが引用され、2 では、

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 ところで、日本で結核が社会問題になったのは明治以降のことである。明治維新後、すぐれた学生が選ばれて、海外留学したが、海外で結核に冒され、留学を中断して帰国したり、留学中に亡くなった者がたくさんいた。
 留学先の欧州では、ちょうど産業革命に続いて、資本主義が展開して、工場がふえていったが、劣悪な衛生環境で暮らしている低所得者や労働者がふえて、彼らの間で結核が蔓延していた。
 そこへまったく無防備で留学生が入っていき、刻苦勉励の暮らしをしていたが、食生活を切りつめる生活を余儀なくされているうちに、結核になったのである。
 東京大学医学部では、初期の卒業生の中から最優秀者三名を選び、将来、東京大学の教授になることを約束して、ドイツに留学させた。第一回卒業生の中から清水郁太郎、梅錦之丞、新藤二郎の三名が選ばれた。清水は産婦人科学、梅は眼科学、新藤は病理学を専攻することになった。
 しかし、新藤は留学中に発病して帰国し、梅と清水は帰国して教授になったあと数年にして、いずれも結核でたおれたのであった。
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とあります。(p263以下)
梅錦之丞は珍しい名字なので、民法起草者の一人である梅謙次郎の親戚かなと思ったら、二歳上の兄だそうですね。
大変な秀才兄弟ですが、28歳での死はいかにも惜しい感じがします。

梅錦之丞(1858-86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E9%8C%A6%E4%B9%8B%E4%B8%9E
梅謙次郎(1860-1910)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E8%AC%99%E6%AC%A1%E9%83%8E

ま、このような新知識を得ることができて、同書はなかなか有益だなと思って読み進めたのですが、肝心の「4 『女工哀史』と結核」を見ると、

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 明治五年に設置された官営の富岡製糸場に始まる紡績産業が日本の産業革命の中核になったが、山本茂実の小説『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀話』で知られるように、結核が紡績工場の悲劇を生み出していた。
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とあって(p267)、酒井シヅ氏には製糸業と紡績業の区別が全くついていないことが分かります。
せっかくなので続きも引用すると、

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 農村から集まった女子工員が結核に感染して、彼女らが郷里に結核を持ち帰り、農村地帯に結核を広げ、悲惨な結果をひきおこしていたのである。 しかし、工業国の立国を急いでいた政府は、女子工員の結核を問題にする余裕がなかった。工場労働者の結核がはじめて記録に出てくるのは、明治三十六年(一九〇三)に出た農商務省編の「職工事情」の中であった。だが、その報告が出て、結核対策がただちにとられたのではない。政府が本腰を入れて対策に乗り出したかに見えたのが、明治四十四年に工場法を制定したときであった。
 しかし、この法律も実施されたのは、大正五年(一九一六)になってからであり、そのときまで、女子工員はひどい労働条件のもとで働いていた。
 先述の農商務省の報告が出たのと同じ年に、香川県の技師高畑運太が「香川県における女工の肺結核患者について」という報告書を出している。そこには香川県から他県に出稼ぎに出た紡績女子工員の記録が載るが、高畑がこの報告書をつくった動機は、疾病のために帰郷療養する者がふえてきたことにあった。
 この当時の女子工員の労働時間は長く、深夜労働は当たり前であった。彼女たちは就職すると、まもなく月経が閉止し、次第に虚弱になっていった。胃病、子宮病の名でしばらく治療を受けるが、三ヵ月以上加療しても治らないと、会社がその女子工員を自動的に解雇して、帰郷させたのである。そのとき肺病にかかっていた者はほとんど亡くなったのであった。
 ちなみに『女工哀史』は大正十四年(一九二五)に細井和喜蔵が紡績工場に勤務する妻と自身の体験に基づいた記録文学である。
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ということですが、「この当時の女子工員の労働時間は長く、深夜労働は当たり前であった」とあるので、やはり酒井シヅ氏は製糸と紡績の区別がついていないようですね。
繰り返しになりますが、紡績工場では「深夜労働は当たり前」であっても、製糸工場では一切ありませんでした。
それは別に紡績工場の経営者が非人道的で、製糸工場の経営者が人道的であったためではなく、紡績工場では深夜労働(二十四時間操業)が合理的であり利益を生んだのに対し、製糸工場では深夜労働は非合理的で利益を生まなかったからです。

製糸と紡績の違い─「みのもんた」を添えて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43432c59868d8b781e11d4051f82a91f

酒井シヅ氏は『あゝ野麦峠』を「小説」としているので、この点、何か見識をお持ちなのかなと思いましたが、特にそんなことはなさそうですね。
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