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小山隆「山間聚落と家族形態」

2016-11-26 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月26日(土)11時12分18秒

古島敏雄が『家族形態と農業の発達』(初版は学生書房、1947)において「この地〔白川村〕の家族形態の研究として、最も精緻」と評している小山隆「山間聚落と家族形態」(『年報社会学四輯』、日本社会学会、1936)は、小山が亡くなった後に纏められた論文集『山間聚落の大家族』(家族問題研究会編、川島書店、1988)に掲載されていますね。
私は同書を読んで、やっと「中切」の意味が正確に把握できました。
古島も「中切部落の小字御母衣」といった紛らわしい書き方をしているのですが、同書の「第1図 五箇山及び白川地方略図」(p142)と「第2表 白川村諸部落個数並に人口(明治9年)」(p145)によれば、白川村を南北に三分割して、南部が中切、中部が大郷、北部が山家となっており、三地域はそれぞれ次のような集落から構成されています。

中切(7集落):尾神・福島・牧・御母衣・長瀬・平瀬・木谷
大郷(10集落):保木脇・野谷・大牧・大窪・馬狩・萩町・島・牛首・鳩谷・飯島
山家(6集落):内ヶ戸・加須良・椿原・有家ヶ原・芦倉・小白川

この集落名と地図と照らし合わせれば、中切の範囲が分かります。
木谷から南が中切ですね。

「白川村の地図」(白川村公式サイト内)

そして大家族は南部の中切地域と北部の山家地域だけに存在し、真ん中の大郷地域は一戸平均人員(明治9年)が5.4人(鳩谷)から9.1人(馬狩)までの間であって、別に大家族ではないんですね。
例えば有名な合掌造り集落は大郷の萩町にありますが、萩町(99戸)の一戸平均人員は7.0人です。
従って、白川村に大家族が生れた理由については、大郷との相違も合理的に説明できなければ説得的ではありませんが、小山以前の研究は次のような相当粗っぽいものだったようです。(p156以下)

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三 白川地方に於ける大家族の起源に就いて

 従来白川中切地方の大家族は家族の原始形態をとゞめるものであり、わが国太古の遺制であるとの見方が一般に行なわれ、今も尚そのような宣伝によつて多数の好事家を集めている。福田徳三博士の如きは原始的プロミスキュヰテー否定の一資料として迄白川の家族制度を取り上げられた。(福田徳三、経済学原理、総論第二編第九章)又岡村利平氏は『遥かに古代に於いて我朝一般に行われたる家族制度は殆ど現時白川村中切のものと同一なりしこと疑なきなり』と断じ、『上古以来の住民が血統連綿として古風俗を存し以て今日に至れる事は更に大寶二年戸籍と明治三十八年戸籍との比較研究に拠りて推断し得べし』となし、大寶二年御野国味蜂間郡春部里戸籍の内最初に記載されて居る四戸を引用して、白川の遠山、大塚二家の戸籍との比較を試みて居る。(岡村利平、白川村家族制と大寶二年戸籍比較研究、飛騨史壇第一巻第二号)
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「プロミスキュヰテー」は promiscuity=(性的な)乱交のことで、福田徳三は中切に「私生児」が多かったとしても、父母は別居しているだけで男女関係はきちんと固定されており「乱交」があった訳ではないことを知り、これは「原始的プロミスキュヰテー否定の一資料」に使えると思ったのでしょうね。
ちなみに福田徳三は日本に初めてマックス・ウェーバーを紹介した人で、福田がミュンヘン大学に提出したドイツ語論文(坂西由蔵訳『日本経済史論』寳文館、1907年)はマックス・ウェーバーも読んでいて、何かに引用しているはずです。

福田徳三(1874-1930)
ヴォルフガング・シュヴェントカー『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』

ま、それはともかく、小山の文章の続きをもう少し引用します。

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 白川の大家族を太古の遺制と見るものはいづれも此の程度の推論以上に出るものではない。福田博士の所論の如きは単なる外形の類似を以て直ちに一般化乃至法則化せんとする謂わゆる simplicist theory の一適例であつて、事実に関する真相を充分に確めずして、独断的に処理することは、却つて科学的知識の困乱に導くものと云わねばならない。岡村利平氏は篤学なる郷土史家として折角新旧戸籍の比較を試みながらも、只両者の中から二三のものを示例的に取上げて比較すると云う程度に留まり、全般に亘つて夫々の特質を充分に把握することをしなかつた為に、徒らに恣意的な結論に導いている。両者の特質と差異から、ひいて白川の大家族を以て日本古来の遺制と見ることの不当であるということは、既に戸田貞三教授によつて論証された。然らば何時の時代から此のような大家族は発生し、又何故に特に白川の一部にのみ存在したかということが、当然次の問題とされなければならない。【後略】
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結局、小山以前の研究には実証的と呼べるものはひとつもなかったようですね。

小山隆(1900-83)

>筆綾丸さん
>田舎の小学校の全生徒数より多い
『山間聚落の大家族』の編者による「あとがき─解題にかえて」には「小山の調査資料のみによっても、かつては白川村に最高四六人の大家族(長瀬部落大塚家、明治三三年)が存在したことが報告されている。明治中期頃までは三〇人以上の大家族は珍しい存在ではなかった」(p245)とあり、びっくりです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

天璋院様の・・・ 2016/11/25(金) 14:04:43
小太郎さん
田舎の小学校の全生徒数より多いというのは、不思議を通り越して不気味な感じがしてきますね。

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=219634
漱石の猫にある話を思い出します。
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「あなたもよっぽどわからないのね。だから天璋院様のご祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘なんだって、さっきから言ってるんじゃありませんか」
「それはすっかりわかっているんですがね」
「それがわかりさえすればいいんでしょう」
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https://fr.wikipedia.org/wiki/Cousin_(famille)
ウィキのイラストでいえば、「従兄弟違」とは、Moi(私)から右に二つ目の「Cousin issu de germain」、または、Moi(私)の右斜め下の「Cousin germain éloigné au premième degré」ということになるのですね。
(ちなみに、germain はゲルマン人と紛らわしい単語ですが、これはラテン語起源の用語らしい)
イラストの右上から右下まで全部に名称があって、偏執狂的ですらありますが、日本なら大雑把に遠縁の人で済ますところですね。??
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