学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

成良親王についての一応の整理と次の課題

2020-11-28 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月28日(土)12時26分9秒

桃崎有一郎氏『室町の覇者足利義満』の成良親王に関する記述に疑問を持ったものの、コロナの影響ですぐに『大日本史料』を確認することができず、代わりに『続史愚抄』を覗いてみたところ、なかなか新鮮な指摘があったので、私も一時はすごい発見をしたかのように興奮していました。
しかし、冷静になって考えてみれば、近世の編纂物である『続史愚抄』が、秘められた歴史の真実を解きあかす究極の史料のはずがありません。
『続史愚抄』には、建武元年(1334)十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下。<鎌倉将軍次第作建武二年八月一日。〇紹運録、職原抄、梅松論、神皇正統記、鎌倉将軍次第。>」との記述がありますが、『相顕抄』と同一内容と思われる「鎌倉将軍次第」を除く四つの史料を見ても、この日に成良に征夷大将軍宣下があったとは書いていません。
もちろん私が見たのは容易に確認できる刊本だけなので、柳原紀光がそれらとは異なる写本を参照していた可能性はあるでしょうが、そのあたりは素人の私には全く手に負えない世界です。
他方、『相顕抄』もずいぶん奇妙な書物ですね。
『大日本史料 第六編之二』の建武二年八月一日条に「一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス」と断定的に書いてあるので、その典拠である『相顕抄』を確認してみたところ、南北朝初期の詳しい記述があるのかなと思ったら、太政大臣等の高位の職に就いた人の単なるリストでした。
しかも対象が古代から近世までという広く薄い史料であり、肝心な「鎌倉将軍次第」は最後の方に少し出ているだけです。
そして、その内容も、まるで守邦親王の後も鎌倉幕府が続いていて、成良・義良がその将軍であったかのように書かれており、ちょっとびっくりしました。

『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666

『相顕抄』がこの程度の史料なので、『大日本史料 第六編之二』の編集責任者である田中義成が『相顕抄』を根拠に「一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス」などと断定的に書いているのは相当に問題ですが、かといって『続史愚抄』を全面的に信頼することもできず、結局、成良が本当に征夷大将軍に任ぜられたのかを含め、今の私には判断する材料も能力もありません。
ま、これは今後の課題としたいと思いますが、成良を調べているうちに、私の関心は成良よりむしろ、中先代の乱に際して尊氏が本当に征夷大将軍を望んだのか、という問題に移ってきました。
この点、亀田俊和氏は『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)において、

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 尊氏が、弟直義を救援するために京都を出発したのは八月二日である(『梅松論』)。出陣に先立ち、尊氏は後醍醐に征夷大将軍と諸国惣追捕使へ任命されることを希望した。しかし後醍醐はこれを退け、代わりに征東将軍の称号を与えた。
 これも足利氏による武家政権樹立の意向表明とされているが、単に時行討伐を有利にするための権威づけを求めただけであろう。征夷大将軍なら、護良も鎌倉幕府滅亡直後に任命されたし、このときも尊氏の代わりに成良に与えられた。征夷大将軍の獲得は、ただちには幕府樹立や建武政権への謀反には直結しないのである。
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と述べられていて(p26)、尊氏が征夷大将軍を望んだことを前提としつつも、その意義については「足利氏による武家政権樹立の意向表明」とする従来の通説、即ち佐藤進一説と比べると極めて慎重、というか冷淡な評価をされています。
仮に『続史愚抄』の記述が事実であって、成良親王が鎌倉滞在中に征夷大将軍に任ぜられていたならば、尊氏・直義兄弟は既に身近に征夷大将軍を押さえていた訳ですから、尊氏自身が征夷大将軍を望む必要性は減じるので、亀田氏の立場を補強する材料になりそうです。
また、そもそも中先代の乱という緊急事態に際し、『太平記』第十三巻に描かれているように、尊氏が征夷大将軍という地位に固執したと考えるのは不自然ではなかろうか、という根本的な疑問も生じてきます。
そこで、尊氏が建武二年八月という時点で本当に征夷大将軍を望んだのかを少し検討してみたいと思います。
これは近時、呉座勇一氏や谷口雄太氏が論じておられるところの「『太平記』史観の克服」という課題にも通じるものと私は考えています。
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