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『室町人の精神』への違和感

2008-10-14 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月14日(火)00時01分17秒

このところ桜井英治氏の論文をいくつか集めて読んでいるのですが、さすがに東京大学准教授だけあって優秀な方ですね。
『年報中世史研究』32号(2007)に掲載されているシンポジウム「中世史家・網野善彦-原点の検証-」の桜井氏報告部分、「非農業民と中世経済の理解」など、網野氏が本当に言いたかったであろうことを明確に整理した上で、なお網野氏を厳しく批判されており、網野善彦氏の見解は矛盾だらけで訳が分からないと放り投げていた私のような素人にとっては大変参考になりました。
ただ、御専門の流通経済史に関する論文については、門外漢の私のような者でもフムフムと素直に読み進めて行けるのに、一般読者向けに書かれたはずの『室町人の精神』(講談社「日本の歴史」第12巻、2001年)に限っては、桜井氏がこれこそ室町人の精神だと言われる部分に、何故か私はザラザラとした違和感を感じてしまいます。
例えば、「はじめに-室町亭のもののけ」には、以下の記述があります。

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(前略)
 ところでこれはあまり知られていない事実だが、この室町亭は当時有名な心霊スポットであった。室町亭にもののけが出没するようになったのは、義教が室町亭に移ってまもない一四三二年(永享四)ごろからであり、以後、一四五九年(長禄三)ごろまで四半世紀にわたってもののけは出没しつづけた。襲われるのは大概女房たちであり、髪や衣服を切られることが圧倒的に多かった。それはときには野狐のしわざとされ、ときには将軍に捨てられた女房たちの生霊のしわざと考えられた。義政の時代には、義政の母日野重子をはじめ、女房たちがもののけを恐れて室町亭に近づきたがらなかったために、一時室町亭が廃棄されていた時期もある。彼らにとってもののけはそれほど身近で現実性を帯びた存在だったということである。
 けれども、応仁・文明の乱がはじまるころにはもののけもほとんど目撃されることがなくなった。もののけたちにとっても住みにくい時代がやってきたのである。応仁・文明の乱とは、日本人の精神史にとってそのような呪術性からの解放のエポックでもあったことを、まずここで銘記しておきたい。この転換期を経て、日本の歴史ははじめて近代化への道をしずかに歩みはじめるのである。
 室町亭のもののけといえば、義教の嫡男で義政の兄にあたる七代将軍義勝の死がやはり彼らのしわざと信じられていたことにも触れておく必要があろう。義勝はわずか十歳で世を去ったために、十九歳で父義持に先だった五代将軍義量とともに歴史的には影の薄い存在となっているが、当時の人びとは、義勝の死を幕府によって抹殺された足利持氏・一色義貫・赤松満祐らの祟りと解釈したのである。義勝の死の直前、幕府が室町亭に霊媒師を招いて口寄せをおこなったところ、一色義貫の霊は「のびのびになっている一色家の相続を早く実現せよ」と語ったという。
 けれども彼らが発したこれらの言葉は、現代を生きる私たちにとっては少々意外なものであろう。怨霊たちにとっては殺された恨みよりも、家が存続するか否かのほうがはるかに大きな関心事だったのである。このような彼らの価値観をふまえておかないと、彼らの痛みも本当に理解できたことにはならない。彼らが死んでまでこだわりつづけた家とは何か、そのことも念頭においたうえで、さっそく室町時代の歴史をひもといてゆくことにしよう。(後略)
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概説書の執筆にあたって、歴史学者の多くは、概説書は論文とは違う特別の緊張感がある、と言われるようですが、桜井氏の初めての概説書である本書の巻頭言はその3分の2が「もののけ」で占められていて、まあ、ここまで緊張感の乏しい巻頭言も珍しい感じがします。
そして、この程度のことが「室町人の精神」を語る上で本当に必要なことなのか、適切なのかについて、私にはかなり疑問があるのですが、自分自身が勉強不足の段階であれこれ言っても仕方ないので、いつかきちんとした批判ができるように、少しずつ勉強を進めたいと思っています。

桜井英治氏
http://www.c.u-tokyo.ac.jp/jpn/kyokan/new_06_04_sakurai.html
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