学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻八 あすか川」(その15)─小倉公雄

2018-02-11 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月11日(日)09時58分58秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p167以下)

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 権中納言公雄と聞ゆるは、皇后宮の御弟なり。早うより故院いみじくらうたがらせ給ひて、夜昼御傍らさらず侍らひて、明け暮れ仕うまつらせ給ひしかば、限りある道にも後らかし給へることを、若き程に、やる方なく悲しと思ひ入り給へり。西の対の前なる紅梅の、いとうつくしきを折りて、具氏宰相中将、彼の中納言に消息聞ゆ。

  梅の花春は春にもあらぬ世をいつと知りてか咲き匂ふらん

返し、

  心あらばころもうき世の梅の花折忘れずば匂はざらまし

「夜さり、対面に何事も聞こえん」といへるを、この中将も故院の御いとほしみの人にて、同じ心なる友に覚えければ、いとあはれにて、悲しきことも語り合はせん、と日ぐらし待ちゐたるに、つひに見えず。あやしと思ふに、はやその夜、頭下ろしてけり。よはひも盛りに、今も皇后宮の御せうと、春宮の御伯父なれば、世おぼえ劣るべくもあらず。思ひなしも頼もしく、誇りかなるべき身にて、かく捨て果つる程、いみじくあはれなれば、皆人いとほしう悲しき事にいひあつかふめり。経任の中納言にはこよなき心ばへにや。
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洞院実雄(1219-73)の次男、小倉公雄は歌人として著名な人ですが、生没年がはっきりしません。
井上氏は「『和歌文学大辞典』(本位田重美執筆)の文永九年三十歳くらいか、の推測によると、寛元元年(1243)ごろの生まれ。正中百首詠進後の事蹟なく、そのころ(正中二年、一三二五)没か。八十三歳くらい。皇后佶子はこの年二十八歳だから、公雄は兄か」と書かれています。(p172)
今上天皇(亀山)の寵愛の厚い洞院佶子(京極院、1245-72)の兄(もしくは弟)で、春宮(後宇多天皇)の伯父(もしくは叔父)ですから、将来の出世も約束されていたはずの人物ですが、『公卿補任』によれば後嵯峨法皇崩御の五日後、二月二十二日に出家しています。
『増鏡』は中院具氏(1232-75)との歌のやり取りなどを紹介して小倉公雄の立派さを演出していますが、「経任の中納言にはこよなき心ばへにや」(経任の中納言よりは、このうえなく優れた心根であろうか)という評価を見ると、基本的に洞院家に冷ややかな『増鏡』作者は、中御門経任の人間的な駄目さを強調するために小倉公雄をやたらと持ち上げているような感じがします。

小倉公雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E5%85%AC%E9%9B%84

なお、中院具氏の祖父は中院家の祖・通方(1189-1239)で、後深草院二条の祖父・久我通光(1187-1248)の同母弟であり、従って後深草院二条とは又従兄弟の関係となります。
具氏は『増鏡』には亀山殿歌合の読師と琵琶の演奏者として初登場し、後嵯峨院五十賀試楽の場面でも名前だけ出てきます。
後嵯峨院五十賀試楽の場面の場面では小倉公雄も「富小路三位中将公雄」として登場しますが、当該時点で公雄は権中納言正三位であり、弟の従三位左中将・公守(1249-1317)との混同があるようです。

「巻七 北野の雪」(その8)─亀山殿歌合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d1e4c2b3727d5c1260866c3cff2d0b3
「巻七 北野の雪」(その9)─洞院愔子(玄輝門院)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ee450f471d7375932b72203f9804b9b
「巻八 あすか川」(その2)─「二条大納言経輔」の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4831a8acf5a6dffb71133e2a9281e1c

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 父大臣も、院の御事を尽きせず嘆き給ふにうちそへて、いみじと思す。公宗中納言も、かひなき物思ひの積もりにや、はかなくなり給ひぬ。またこの中納言さへかく物し給ひぬるを、さまざまにつけて心細く思すに、いく程なく皇后宮さへ又うせ給ひぬ。いよいよ臥し沈みてのみおはする程に、いと弱うなりまさり給ふ。春宮の御代をもえ待ち出づまじきなめり、と、あはれに心細う思し続けて、

  はかなくもをふのうらなし君が代にならばと身をも頼みけるかな

嘆きにたへず、つひに失せ給ひにけり。物思ふには、げに命もつくるわざなりけり。
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「公宗中納言も、かひなき物思ひの積もりにや、はかなくなり給ひぬ」とありますが、洞院公宗(1241-63)が二十三歳の若さで死んだのは弘長三年で、既に九年前の出来事です。
公宗の同母妹・佶子への儚い恋物語は『増鏡』の「愛欲エピソード」の初例ですが、公宗の死は『増鏡』には記されないので、公宗の恋物語だけを読むと、佶子が生んだ皇子・皇女、特に春宮となった世仁親王(後宇多天皇、1267-1324)の父親は誰なのだろうか、という疑問を持つ人もいると思います。
ここでやっと公宗の死が明らかにされますが、その年次が記されている訳ではないので、『増鏡』だけ読んでいる人には当該疑問への回答が与えられている訳でもありません。
さて、娘に恵まれた洞院実雄の栄華は何度も強調されてきましたが、ここで洞院家にとって不吉な事態が連続して起きます。
まず、二月に次男の公雄が出家し、次いで半年後の八月九日、皇后宮佶子が二十八歳の若さで死んでしまいます。
そして佶子が亡くなった一年後の文永十年(1273)八月十六日、実雄自身も五十七歳で亡くなってします。
佶子が生んだ世仁親王が皇位に就くのは文永十一年(1274)正月二十六日で、実雄は「春宮の御代」到来の五か月前に死んでしまった訳ですね。

「巻七 北野の雪」(その2)─洞院佶子と洞院公宗
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c1c2c8eec29b852e974736def4499e8
「巻七 北野の雪」(その4)─洞院佶子、立后
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c70935efc0465b67406a1d5f67f0afb9

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