投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月11日(日)11時39分0秒
『とはずがたり』と『増鏡』で厳しく非難されている中御門経任について、井上宗雄氏は、
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【前略】この経任の立場をまとめた松本寧至氏「経任出家せず─『とはずがたり』点景─」(群馬女子短期大学紀要第五号、昭和53年3月)という興味深い論文がある。
経任は後嵯峨院に寵愛され、また後には亀山院政にも、そして後深草院政にも、なくてはならぬ人物であった。政界遊泳に巧みであった、ともいえるが、たいへん有能な官僚で、その力量を諸方面から買われたのである。巨富、術策でのし上がったドライなリアリスト、と評される。ついには権大納言まで昇り、中御門家(勧修寺家の一支流)を起こしたのである。
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と評されています。(『増鏡(中)全訳注』、p173)
まあ、『増鏡(中)全訳注』が出た1983年時点では歴史学においても鎌倉時代の公家社会研究が全然進んでいなかったので、国文学者の認識はこの程度だったのだろうと思いますが、現在は、少なくとも歴史学界の研究水準は一変していますね。
その画期となったのが本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東大出版会、1995)です。
同書から中御門経任とは何者だったのかを探ってみると、まず、巻末の「廷臣小伝」に、
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中御門経任 天福元(一二三三)~永仁五(一二九七)・正・十九
父は吉田為経、母は大宮院半物。後嵯峨上皇に信任され、弘長二(一二六二)年に兄経藤を超越して左衛門権佐に任ず。経藤は怒って官を辞し、出家してしまう。超越されたのを恥辱と感じたためだ、とすれば一応の説明になる。より現実的にいうならば、吉田家の家嫡争いに敗れたこと、父為経の所職所帯の継承者が自分でなく経任であることが広く明らかになり、前途の望みを絶ったのだろう。同年末に右少弁となる。普通、五位蔵人から右少弁になるのだが、経任はまず右少弁になってから翌年に形ばかりの蔵人を兼ねる。蔵人に任じられても必ずしもその次の官職は定かではない。しかし右少弁になれば、余程失態を演じない限り、大弁に昇り得る。それゆえに直に右少弁になる方が名誉であるといえるだろう。姉小路忠方のように、権勢者である父が自らの辞退と引きかえに子息を推挙するときにこの任官が見られるようだが、経任の場合は父はすでに亡い。彼を推挙してくれたのは他たらぬ後嵯峨上皇であろう。以て彼への信任ぶりがしられよう。なお、更に文書からみてみると、彼はおそらく右少弁任官以前に、伝奏も務めているようである。文永六(一二六九)年、参議。同七年権中納言。同八年大宰権帥を兼ねる。前任者は院執権で一門長老吉田経俊であり、交代は経俊が預かり知らぬうちに行なわれた。決定を開き、人々は唖然としたと伝えられる(1)。またこの年に従二位に叙す。超越された姉小路忠方は官を辞した。他の公卿の批判も高まったらしく(2)、権中納言を辞任。しかし八ヵ月後には復任している。後嵯峨上皇の没後もひきつづき亀山上皇に仕え、建治三(一二七七)年には権大納言となる。弘安六(一二八三)年、子息為俊を右少弁に推して辞官。しかしなお政治の中枢にあり、後深草上皇、伏見天皇にも重んじられた。
(1)『吉続記』文永八年二月二日
(2)『吉続記』文永八年三月二十七日
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とあります。(p255)
念のため『公卿補任』を見ると、文永七年(1270)に経任(38歳)は「正月廿一日任(権中納言)。三月十一日勅授帯剣。十二月四日正三位」とあり、翌文永八年(1271)に「三月二十七日辞。太宰権帥。廿八日列本座。十月十三日還任」となっています。
これらは全て後嵯峨院の意向に沿った人事であることは明らかで、確かに後嵯峨院の経任に対する寵愛ぶりに反発を感じた人は多かったのでしょうね。
ただ、『増鏡』作者が抱いた経任への反発が『吉続記』の著者、吉田経長(1239-1309)のような実務官僚と同種のものであるかは別途検討する必要があり、また、人事をめぐる感情的対立は世の常とも言えるもので、そんな些事をなぜ『増鏡』作者は鎌倉時代全体を通観する一大歴史物語にわざわざ載せる必要があると考えたのかも別途検討する必要がありそうです。
『とはずがたり』と『増鏡』で厳しく非難されている中御門経任について、井上宗雄氏は、
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【前略】この経任の立場をまとめた松本寧至氏「経任出家せず─『とはずがたり』点景─」(群馬女子短期大学紀要第五号、昭和53年3月)という興味深い論文がある。
経任は後嵯峨院に寵愛され、また後には亀山院政にも、そして後深草院政にも、なくてはならぬ人物であった。政界遊泳に巧みであった、ともいえるが、たいへん有能な官僚で、その力量を諸方面から買われたのである。巨富、術策でのし上がったドライなリアリスト、と評される。ついには権大納言まで昇り、中御門家(勧修寺家の一支流)を起こしたのである。
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と評されています。(『増鏡(中)全訳注』、p173)
まあ、『増鏡(中)全訳注』が出た1983年時点では歴史学においても鎌倉時代の公家社会研究が全然進んでいなかったので、国文学者の認識はこの程度だったのだろうと思いますが、現在は、少なくとも歴史学界の研究水準は一変していますね。
その画期となったのが本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東大出版会、1995)です。
同書から中御門経任とは何者だったのかを探ってみると、まず、巻末の「廷臣小伝」に、
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中御門経任 天福元(一二三三)~永仁五(一二九七)・正・十九
父は吉田為経、母は大宮院半物。後嵯峨上皇に信任され、弘長二(一二六二)年に兄経藤を超越して左衛門権佐に任ず。経藤は怒って官を辞し、出家してしまう。超越されたのを恥辱と感じたためだ、とすれば一応の説明になる。より現実的にいうならば、吉田家の家嫡争いに敗れたこと、父為経の所職所帯の継承者が自分でなく経任であることが広く明らかになり、前途の望みを絶ったのだろう。同年末に右少弁となる。普通、五位蔵人から右少弁になるのだが、経任はまず右少弁になってから翌年に形ばかりの蔵人を兼ねる。蔵人に任じられても必ずしもその次の官職は定かではない。しかし右少弁になれば、余程失態を演じない限り、大弁に昇り得る。それゆえに直に右少弁になる方が名誉であるといえるだろう。姉小路忠方のように、権勢者である父が自らの辞退と引きかえに子息を推挙するときにこの任官が見られるようだが、経任の場合は父はすでに亡い。彼を推挙してくれたのは他たらぬ後嵯峨上皇であろう。以て彼への信任ぶりがしられよう。なお、更に文書からみてみると、彼はおそらく右少弁任官以前に、伝奏も務めているようである。文永六(一二六九)年、参議。同七年権中納言。同八年大宰権帥を兼ねる。前任者は院執権で一門長老吉田経俊であり、交代は経俊が預かり知らぬうちに行なわれた。決定を開き、人々は唖然としたと伝えられる(1)。またこの年に従二位に叙す。超越された姉小路忠方は官を辞した。他の公卿の批判も高まったらしく(2)、権中納言を辞任。しかし八ヵ月後には復任している。後嵯峨上皇の没後もひきつづき亀山上皇に仕え、建治三(一二七七)年には権大納言となる。弘安六(一二八三)年、子息為俊を右少弁に推して辞官。しかしなお政治の中枢にあり、後深草上皇、伏見天皇にも重んじられた。
(1)『吉続記』文永八年二月二日
(2)『吉続記』文永八年三月二十七日
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とあります。(p255)
念のため『公卿補任』を見ると、文永七年(1270)に経任(38歳)は「正月廿一日任(権中納言)。三月十一日勅授帯剣。十二月四日正三位」とあり、翌文永八年(1271)に「三月二十七日辞。太宰権帥。廿八日列本座。十月十三日還任」となっています。
これらは全て後嵯峨院の意向に沿った人事であることは明らかで、確かに後嵯峨院の経任に対する寵愛ぶりに反発を感じた人は多かったのでしょうね。
ただ、『増鏡』作者が抱いた経任への反発が『吉続記』の著者、吉田経長(1239-1309)のような実務官僚と同種のものであるかは別途検討する必要があり、また、人事をめぐる感情的対立は世の常とも言えるもので、そんな些事をなぜ『増鏡』作者は鎌倉時代全体を通観する一大歴史物語にわざわざ載せる必要があると考えたのかも別途検討する必要がありそうです。
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