学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「巻七 北野の雪」(その8)─亀山殿歌合

2018-01-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月23日(火)14時55分22秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p80以下)

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 その年九月十三夜、亀山殿の桟敷にて御歌合せさせ給ふ。かやうのことは白河殿にても鳥羽殿にても、いとしげかりしかど、いかでかさのみはにて、みなもらしぬ。このたびは心ことにみがかせ給ふ。右は関白殿にて歌どもえりととのへらる。左は院の御前にて御覧ぜられけり。この程、殿と申すは円明寺殿、新院の御位のはじめつかた摂政にていませしが、又この二年ばかりかへらせ給へり。前関白殿は院の御方にさぶらはせ給ふ。
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弘長三年(1263)の行事のように書かれていますが、実際には文永二年(1265)ですね。
「円明寺殿」は一条実経(1223-84)で、後深草天皇践祚とともに寛元四年(1246)一月に摂政となるも宮騒動の影響で翌年一月に辞めさせられ、十八年後の文永二年(1265)に「前関白殿」二条良実(1216-1270)に代って関白となり、文永四年に辞します。
従って、「新院の御位のはじめつかた摂政にていませし」は正しいのですが、「又この二年ばかりかへらせ給へり」は二年ずれていますね。
ただ、文永二年九月十三日の亀山殿歌合のときは確かに一条実経が関白です。

「巻五 内野の雪」(その8)─一条実経
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6eefe42b09da7e9263e62382e0f9c056

「いかでかさのみはにて、みなもらしぬ」は歌合のような行事は白川殿でも鳥羽殿でも頻繁に開かれたので「どうしてそんなに一々は述べられようか、ということでみんな省略した」という意味で、ここも語り手の老尼がちょこっと顔を出している場面です。
歌合の右方は関白・一条実経が歌を選び整え、左方は後嵯峨院が自ら選び整えられたとのことで、「前関白殿」二条良実は左方に属した訳ですね。

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 そのほかすぐれたる限り、右は関白殿・今出川の太政大臣・皇后宮の御父の左大臣殿よりも下、みなこの道の上手どもなり。左は大殿よりかずたてつくりて風流の洲浜、沈にてつくれる上に白銀の舟二つに色々の色紙をまき重ねてつまれたり。数も沈にてつくりて舟に入れらる。左右の読師、一度に御前に参りてよみあぐ。左具氏の中将、右行家なり。山紅葉、本院の御製、

  ほかよりは時雨もいかがそめざらむ我が植ゑて見る山の紅葉ば

つひに左御勝の数勝りぬ。
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「今出川の太政大臣」は西園寺公相(1223-37)、「皇后宮の御父の左大臣殿」は洞院実雄(1219-73)です。
「かずたて」は「勝った数を数えるため、串や枝を差し入れる道具」(p84)だそうで、私はこの種の行事のことが分からないので、井上氏の訳を引用すると、

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左方は良実公から数取りを作って(奉り)趣向をこらした洲浜を沈の木で造った上に銀の舟二艘を置き、それにいろいろの色紙を巻き重ねて積まれている。数取りも沈の木で作って舟の中に入れられている。左右の読師はそろって御前に進んで歌を詠みあげる。左は具氏中将、右は行家である。「山の紅葉」という題で詠まれた後嵯峨院の御製【後略】
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ということです。(p82)
単に歌の優劣を競い合うだけでなく、なかなか豪華絢爛たる行事のようですね。
「具氏中将」は『徒然草』第135段に登場する村上源氏の「具氏宰相中将」で、「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんとう」の意味を「資末大納言入道」に質問した人です。

中院具氏(1231-75)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%B7%E6%B0%8F

「行家」は「六条藤家」の歌人、九条行家で、すぐ後に出てくる『続古今集』の撰者の一人です。

九条行家(1223-75)(水垣久氏『やまとうた』内、「千人万首」)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yukiie.html

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