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流布本も読んでみる。(その32)─「上の山より大妻鹿〔めが〕一〔ひとつ〕落ちて来れり」

2023-05-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

宇都宮頼業については『古今著聞集』にも承久の乱のエピソードが載っていますが、流布本とは内容がかなり異なります。
これまた松林氏の「補注」からの孫引きで恐縮ですが、

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宇都宮四郎頼業   
 古今著聞集・巻九・武勇「承久のみだれに、宇津宮越中前司頼業、未無官なりけるが、宇治川をわたすとて、おしながされて、水の底へ入たりけるに、石にかき付て、鎧をぬがんとしけるが、上帯しめてとけざりければ、引ちぎれてぬぎて、およぎあがりたりけり。さしもはやき河の底にて、かく振舞たりける。ゆゝしき事なりけり。水練成けり」。
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と「宇治川をわたす」とあり、瀬田川は宇治川の上流ですから別に間違いではないのでしょうが、瀬田橋の戦いと特定できる訳ではありません。
そして、頼業は遠矢を射るのではなく、川を渡っているので、これだけ見れば宇治橋近辺の渡河の話のようにも思えますね。
ところで『古今著聞集』は建長六年(1254)の成立であり、従来は流布本『承久記』の成立は相当遅いものと考えられていましたから、あるいは流布本が『古今著聞集』の頼業エピソードを借用したものと考えられていたのかもしれません。
しかし、両者を読み比べてみれば明らかなように、『古今著聞集』を読んだからといって、流布本の頼業エピソードの創作には殆ど参考になる部分がありません。
しかし、流布本には頼業エピソードの直前に「水練」の達者である吉見十郎のエピソードが置かれています。
即ち、

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吉見十郎、子息小二郎が被切伏けるを、肩に引懸て河端迄延〔のび〕たりける。後より余に強射ける間、子をば河へ投入、我身も河に飛入。水練なりければ、水の底にて物具脱捨、裸に成て我方へ游〔およ〕ぎ帰て扶〔たすか〕りけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d

とあって、『古今著聞集』とストーリーの骨格は同じであり、真似をしているようにも見えますね。
私としては、これは流布本の成立が『古今著聞集』に先行していることの証左のように思われます。
また、頼業エピソードの一部となっている老武者・熊谷直家の飄々たる振舞は、若武者が興奮して無謀な行動に出やすい戦場においては、実際にはかなり重要な役割だったように思えます。
しかし、さすがにこうした行動で恩賞を貰えるはずもなく、古文書や古記録に残らない、少数の関係当事者の思い出話程度で終わりそうな話です。
それが流布本に載っているということは、やはり流布本が従来考えられていたより相当早い時期に成立した証左の一つなのではないかと私は考えます。
この点、戦後処理の話になりますが、藤原定家の息子・為家(二十四歳)が順徳院の佐渡配流に同行するとの噂があったものの、「一まどの御送をも不被申、都に留り給」というエピソードが記されたことと共通する面があるように思われます。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e968d1055c6c4e148ff37749449f6f6

ま、それはともかく、続きです。(p103以下)

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 爰に供御瀬へ、武田五郎・城入道奉〔うけたまはつ〕て向けるに、何〔いづ〕くより来とも不覚、上の山より大妻鹿〔めが〕一〔ひとつ〕落ちて来れり。敵・御方〔みかた〕、「あれや/\」と騒ぐ所に、甲斐国住人平井五郎高行が陣の前を走通る。高行、元来〔もとより〕鹿の上手に聞こへてはあり。引立たる馬なれば、ひたと乗儘に弓手に相付て、上矢の鏑〔かぶら〕を打番〔つが〕ひ、且〔しば〕し引て走らかし、三段計〔ばかり〕に責寄せて、思白毛の本を鏑は此方〔こなた〕へ抜よと丙〔ひやう〕と射る。鹿、矢の下にて転〔まろ〕びける。弓勢〔ゆんぜい〕、由々敷ぞ見へし。
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供御瀬は現在の滋賀県大津市黒津の近辺ですが、流布本では、

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能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近広・佐々木弥太郎判官高重・中条下総守盛綱・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉、是等を始として一万余騎、供御瀬〔くごのせ〕へ向ふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427

とあって、藤原秀康・三浦胤義以下、錚々たるメンバーが総勢一万騎も派遣されたことになっているので、さぞかし詳細な戦闘記録が記されるのかと思いきや、大きな牝鹿を「甲斐国住人平井五郎高行」が仕留めたというエピソードで終わってしまっていて、拍子抜けですね。
ちなみに『吾妻鏡』では六月十二日条に「食渡」と出て来るのが供御瀬のことで、京方は二千余騎になっていますから、流布本とはずいぶん差があります。

(その29)─「引議にては不候。帯〔をび〕くにて社〔こそ〕候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d

供御瀬(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E4%BE%9B%E5%BE%A1%E7%80%AC-1526809

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