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長村祥知氏「藤原秀康─鎌倉前期の京武者と承久の乱」(その1)

2023-04-01 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私自身の関心は藤原秀康より同母弟の秀能(1184-1240)にあり、秀康はあくまで秀能を理解するための前提という位置付けだったのですが、平岡豊氏「藤原秀康について」を検討し始めたら面白くて、ついつい十回シリーズになってしまいました。
ついでなので、藤原秀康についての最新研究と思われる長村祥知氏の「藤原秀康─鎌倉前期の京武者と承久の乱」(平雅行編『公武権力の変容と仏教界』、清文堂出版、2014)も、秀能とその猶子・能茂に関する部分を中心に、少し見ておきたいと思います。
この論文は、

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 はじめに
一 後鳥羽の「切り者」
二 院御厩奉行
三 秀康一族の所領
四 国務と官位
五 後鳥羽院政下の武力として
六 承久の乱と藤原秀康一族
七 承久の乱と京武者
 むすび
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と構成されていますが、「はじめに」の冒頭で、長村氏は、

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 藤原秀康(生?~没一二二一)は、承久の乱(承久三年=一二二一)で大敗を喫した京方の総大将というべき立場にあった。
  各〔おのおの〕心を一〔ひとつ〕にしてきくべし。是は最後の詞也。……恩をしり名を
  をしまむ人、秀康・胤義をめしとりて、家をうしなはず、名をたてむ事をおもはずや。
                              (『六代勝事記』)
 これは、承久三年(一二二一)五月、後鳥羽院が北条義時追討命令を発したことに対して、北条政子が東国武士に迎撃を呼び掛けたとされる際の言葉である。『六代勝事記』を典拠として『吾妻鏡』承久三年五月十九日条も「早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし」と記しており、承久京方の中心は秀康と三浦胤義であると鎌倉方が認識していたことが窺えよう。
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と書かれています。(p77)
平岡氏は秀康の地位について大変悩まれていましたが、『六代勝事記』や『吾妻鏡』に基づいて、「京方の総大将」などと軽く流すのが普通の研究者ですね。
なお、『承久記』には流布本・慈光寺本とも政子の演説の場面はありますが、実際に読んでみると秀康・胤義の名前がないばかりか、内容も愚痴ばかりであまり格調が高くなく、ちょっと意外ですね。
『吾妻鏡』の政子の演説が『六代勝事記』に基づくことを明確にしたのは平田俊春氏(防衛大学名誉教授、1911-94)の功績です。
「はじめに」の後半は省略して「一 後鳥羽の「切り者」」に入ると、

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 建久七年(一一九六)十二月、藤原秀康は、後鳥羽天皇の臨時内給(天皇が臨時に行使できる官職推挙権)によって内舎人〔うどねり〕に補任された(『三長記』十二月二十五日条)。同年十一月の政変で源通親が政界を主導するようになった直後のことであり、さらに源通親が東宮傅であった時に秀康が春宮の主馬首〔しゅめのかみ〕、男秀澄が春宮帯刀〔たちはき〕に在任していること、『尊卑分脈』に弟秀能が源通親に伺候していたとあること(『尊卑』二─四〇八頁)から、秀康一族は、源通親の引き立てを足掛かりに、後鳥羽に近似するようになったと考えられている〔平岡一九九一〕。
 なお平岡豊氏は、秀康が承久の乱の敗北後に逃亡・潜伏した河内国讃良〔さらら〕が村上源氏の所領であることにも注目しているが、その論拠となった「中院流家領目録草案」(『久我家文書』三号)についての研究の進展により、今日では讃良が平安後期に久我家領であったとは確定できないことが指摘されている〔岡野 二〇〇二〕。
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とありますが(p78)、「男秀澄」は誤りで、秀澄は秀康の「男」(息子)でなく、弟です。
ただ、他の箇所では秀澄が弟となっており、ここは長村氏の単なるケアレスミスですね。
秀康・秀能・秀澄の三人は、この順番で三人兄弟です。
さて、第一節の後半と「二 院御厩奉行」は省略して、「三 秀康一族の所領」に入ると、河内に関して秀康が伊香賀郷を知行していたことへの言及の後、

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 一方、大和では、秀能が井上庄の一〇町を知行していた。さらに「内山永久寺置文」〔藤田一九九九〕によれば、秀能は、京の嵯峨大覚寺古仏を迎えて大和に堂舎を建てようとしていたが、「去る承久天下乱逆の時、秀能、余殃を蒙り、家産を没収せらるる間、素願を遂げず、空しく星霜を送」ったという〔平岡一九九一〕。なお、秀能は、『尊卑分脈』に「承久三年兵乱の時、追手大将なり」とあるが、「内山永久寺置文」の「余殃」という文言や承久の乱関係の史料所見から、承久の乱には出陣していなかったと考えられている〔田渕一九八一、大和二〇〇八〕。
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とありますが、田渕句美子氏の「秀能の生涯」(『中世初期歌人の研究』、笠間書院、2001、初出1981)は長村論文の後、検討します。
『尊卑分脈』の記載にも拘わらず、秀能が承久の乱に参戦していなかったことを明確にされたのは田渕氏ですね。
また、秀康一族の所領に関し、平岡氏は能茂の所領には触れられていませんでしたが、この点について、長村氏は以下のように書かれています。(p82)

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 秀康の一族も後鳥羽から所領を給与されており、建保元年(一二一三)には八条院女房別当三位の所領であった近江国箕浦庄が藤原能茂(医王丸)に与えられている(『明月記』十二月六日条)。承久三年(一二二一)十月二十九日「後高倉院庁下文」(徳大寺家史料。〔上杉一九九九〕)には、藤原能茂が威徳寺領祇洹〔ぎおん〕寺を「去る建暦[ ]時、能茂、指せる由緒無く、院宣を賜り押領せしめおわんぬ」と見える。
 彼等は後鳥羽の権威を背にして所領を集積していたのである。
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まあ、能茂はもともと後鳥羽の寵童ですから、「指せる由緒無く」所領を得ていたのでしょうね。
今のところ確認されているのは箕浦庄と祇洹〔ぎおん〕寺だけなのかもしれませんが、もっとあっても全然不思議ではありません。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0be06ac4886fc275de8e50db40a65dcd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d3bf634d5a4254f70a203b669c775288
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ca6d33e117a14d9dd7df1b14b26ef
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58d88be0900cedfdbd79ed8793d9f809

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