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「黙れ兵隊!」の虚実(その2)

2016-10-15 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月15日(土)11時07分26秒

そして、様々な人の様々な動きが12頁分続いた後、四方が登場します。(p538以下)

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 六時すぎ、西陽がななめに照りつける軍需大臣官邸に、憲兵隊のサイドカーが爆音をひびかせて走りこんだ。監視の憲兵たちが異常に緊張したのも道理で、降りたったのは四方隊長である。
 難しい表情をした四方は、玄関の土間に仁王立ちになると、応接間への案内を断わり、岸に、ここまで出てくるよう求めた。
 寝床から起き上った岸は、非礼になるから、と着更えをすすめる家人を叱り、着ていた寝巻き浴衣をそのままに、上からガウンを着て玄関に出た。相手が相手だし、刃物を持っているから、何をやられるかわからない。
(弱い病人として低姿勢にでれば、めったなことはやりにくい筈だ。挑戦的に見られるのは、避けなければ危ない)
 治安の責任者が暴力をもって押しかけているのだから、いまは、自分で自分を守ることを第一に考えなければならなかった。
 覚束ない足取りで玄関に出た岸があぐらをかいて座ると、四方は、腰に下げていた軍刀をはずし、身体の前に立てて両手をのせた。威圧する体勢である。
「あんたは、何ということをしているんだ。内閣の責任は総理がもっている。総理の東條閣下が右向け右、左向け左といえば、閣僚はそれに従うべきではないのか!」
「………」
「どうなんだ、責任ももっていないのに、総理のいうことに反対するとは何事か!」
 岸は、あくまで沈黙を守ってこの場を切りぬけようと心に決めていたが、つい、我慢しきれなくなって反論した。
「君はそういうが、日本において、右向け右、左向け左という力をもっているのは、天皇陛下だけではないのか」
 小さい声ではあったが、反論はやはり相手の癇にさわり、四方は軍刀で、式台をばしっと叩いた。
 大きな音に岸はびっくりして、鞭で叩かれでもしたようにとび上った。四方は怒鳴った。
「貴様、なにをいうか! 貴様ごときが畏れ多くも陛下を引き合いに出すとは何事だ! 東條閣下の御命令に従えないのなら、さっさと大臣を辞めたらどうなんだ!」
 いわれっ放しでいるのはいまいましかったが、凶器をもつ相手をこれ以上刺激してはならない。
 軍需省では、軍部がスタッフに入るようになって以来、意見の合わない役人と口論になった軍人がいら立ち、軍刀をぬいていきり立つ場面が一度ならずあった。役所では仲裁に入る人間がまわりにいるから殺傷にいたらず収まっていたが、ここでは危ない。
「答えんのか、裏切者が!」
 燃えるような眼で見据える仕方の前にあぐらをかき、沈黙したまま耐える岸に、また、身体の震えだすようなひどい寒さが襲っていた。
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さすがに映画監督・脚本家だけあって吉松安弘氏の描写は実に詳細で生き生きとしていて映像的ですが、巻末に参考文献一覧がある以外は出典の明記は一切ありません。
吉松氏の描写が他の文献でどれだけ裏付けられるかを当たっているところなのですが、その割合はさほど高くはなさそうですね。

>キラーカーンさん
>「同輩」意識があったのかも
岸と東條は年齢が12歳離れていますし、岸を45歳の若さで大臣に抜擢してくれたのは東條ですから、それなりに恩義も遠慮もあったのではないでしょうか。

>筆綾丸さん
>八年前はこんなことを書いていたのか。
私もどんな話の流れだったのか分かりませんでしたが、足利義満=光源氏説の関連ですね。
あのときは国文学者も歴史学者も本当に莫迦ばっかりだなと思いましたが、さすがに小川剛生氏は自説を撤回されましたね。

「自戒をこめて」(by 小川剛生氏)

>掲載の写真
私は将棋の世界は全く知らないのですが、真ん中の人は誰なんでしょうか。
まるでゲーム参加者が三人いるような構図ですね。

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2016/10/14(金) 00:19:31(キラーカーンさん)
>>『聖の青春』
「詰みは村山に聞け」から、最近は「詰みはスマホに聞け」との疑惑が・・・

>>「兵隊が何を言うか」
岸と東條は「2キ3スケ」として並び称されていたので、他の人とは違って、
東條に対して「位負け」はしていなかったのかもしれません。
(首相とヒラ閣僚だったとしても、戦前の内閣制度もあり「同輩」意識があったのかも)

absolutely unjustified(濡れ衣だ)、と彼は言った 2016/10/14(金) 13:16:50(筆綾丸さん)
小太郎さん
安倍家に関して、不思議なことに、安倍晋太郎はほとんど話題にならず、泉下の故人は寂しい思いをしているでしょうね。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4744(注)
一行目の「加一見」と末尾の「十一月十日」くらいしか読めませんが、末尾の花押は足利将軍家の公家様花押に似ています。
持明院統と大覚寺統の花押は別様だったのか、あるいは、分裂前の花押はどのようなものだったのか、まったく知らないのですが、義満は案外、後深草院の花押あたりを真似たのかもしれないですね。(後深草院が誰の花押を継承したのか、不明ですが)
義満の公家様花押について、上島有氏は鹿説を提起していますが、『中世の花押の謎を解く』には後深草院をはじめ上皇の花押への言及はなかったと記憶しています。後深草院の花押は何という字を崩したものなのか、興味を惹かれますが、少なくとも諱の久仁には関係ないようですね。
・・・それにしても、八年前はこんなことを書いていたのか。なんだか、別人のような気がします。

追記
http://www.bbc.com/news/blogs-news-from-elsewhere-37643356
将棋の不正疑惑は BBC も報道していますね。しかし、掲載の写真は本文と無関係だから、断り書きがなければいけませんが、BBC にはどうでもいいことなんでしょうね。余談ながら、apps という語はもう普通に使われているのですね。

(注)
鹿ー公家様花押 2008/09/17(水) 19:23:42(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4634523302.html
上島有氏『中世の花押の謎を解く』に、義満の公家様花押が何の字を崩したものなのか、
次のようにあります。

「鹿苑院殿」の「鹿」と考える。鹿は「中原に鹿を逐う」という言葉があるように帝位・
国王を象徴する。公武統一政権=日本国王をめざした義満の好んだ言葉である。鹿王院・
鹿苑院など義満の創建にかかる寺院に、「鹿」が使われているのはそのためと考えられ
る。鹿王院は、義満が康暦二年(1380)四月、春屋妙葩(普明国師)を開山に招請して創建
した大福田宝幢寺のうしろに、春屋の塔所として開山堂を建立したところに、野鹿が群れ
をなしてあらわれたため鹿王院と称したという。義満の塔所となった鹿王院は、永徳
三年(1383)九月にその名を称することになるが、「鹿」ははやくから義満が好んだ一字
であったとしてよかろう。ちなみに、義満が「鹿」を象形化した公家様花押を使いはじ
めたのは永徳元年で、鹿王院創建の翌年である。(216頁)

足利義満を衝き動かしていたのは、文学青年松岡氏の説くように、花へのまぎれもない
欲望や渇望なんかではなく、瀆神かと見紛うほどの鹿への敬慕と崇敬であった(?)、
と考えるべきなのかもしれませんね。
義満の公家様花押の元の字が何なのか、よくわかりませぬが、すくなくとも、花(華)
の字の崩しではないような気がしますね。

・・・それにしても、なんで「花の聖母マリア大聖堂」が出てくるのか、訳がわかりま
せぬ。フィレンツェと京都が、あの時代、ユングの云うシンクロニシティで震えていた、と?
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