学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「現場を目撃した娘の洋子が証言している」(by 太田尚樹)

2016-10-13 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月13日(木)22時20分10秒

ウィキペディアの東條英機の項に、

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東條は岸の辞任を強要するため、東京憲兵隊長・四方諒二を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈しなかった[38]。


とあったので、注38の<太田尚樹 『東条英機と阿片の闇』 角川ソフィア文庫>を探したところ、入手できたのは類似書名の『東條英機 阿片の闇 満州の夢』(角川学芸出版、2009)だけでしたが、これを文庫化したのが『東条英機と阿片の闇』(角川ソフィア文庫、2012)で間違いないでしょうね。
さて、『東條英機 阿片の闇 満州の夢』には、

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【前略】
 のちに国務大臣の岸信介が反旗を翻して東条内閣が総辞職に追い込まれたとき、四方は岸信介の家に乗り込み軍刀を突きつけて、
「東条さんが右向け右と言ったら、その通りにするのが、閣僚の務めだろう」
と脅迫した。そのとき岸は、
「黙れヘイタイ! お前のような奴がいるから、最近の東条さんは評判が悪いのだ」
と言って追い払ったと、現場を目撃した娘の洋子が証言している。因みに洋子は首相を務めた安倍晋三の母親である。
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とあったので(p210)、ええっ、安倍洋子氏が目撃者だったのか、と一瞬驚いたものの、出典が示されておらず、また全体的に些か信頼できかねる雰囲気が漂っているので、どうしたものかと迷いました。
で、とりあえず安倍洋子氏の著書『わたしの安倍晋太郎 岸信介の娘として』(文藝春秋、1992)を当たってみたところ、

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【前略】
 やがて戦局は日本に不利になっていきました。昭和十九年七月、サイパン島をあくまで守るべきだ、サイパン島が陥落すれば日本はB29の空襲にさらされ、工場が爆撃されて軍需生産が低下するという、父の主張をめぐって、父と東條首相との対立が決定的になりました。が、父は首相の強要した辞職勧告をあくまで拒絶したのでした。父はのちに、次のようなエピソードを語っております。
 父が態度を変えないことに腹を立てた四方という東京憲兵隊長が大臣官舎に談判に押しかけてきて、軍刀を突き付け、
「東条閣下が右向け右、左向け左と言えば、閣僚はそれに従うべきではないか。それを反対するとはなにごとか」
 と、おどしたのです。父はそれに対して、
「だまれ、兵隊! なにを言うか。お前みたいなのがいるから、このごろ東條さんは評判が悪いのだ。日本において右向け右、左向け左という力を持っているのは、天皇陛下だけではないか。下がれ!」
 と、一喝して追い返したそうです。
 父は商工大臣就任のときから、自分の命は陛下に差し上げた、自分は日本の国のために働くんだと申しておりましたが、それを第一に考えることは戦後も一貫していたと、わたくしは理解しております。
 後年、父は、生涯に三回死を覚悟したと言っておりました。一回はこの東條首相との対決のとき、二回はA級戦犯として巣鴨プリズンに収監されたとき、三回は安保国会のときです。このとき東條内閣は、父のとった態度のために閣内不統一が表面化し、ついに七月十八日、総辞職ということになり、父もまた野に下りました。
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ということで(p62以下)、昭和3年生まれで「黙れ事件」当時は白百合高等女学校に在学していた安倍洋子氏は父親の話を引用しているだけですね。
ま、太田尚樹氏(東海大学名誉教授)の「現場を目撃した娘の洋子が証言している」は事実ではなかった訳で、しょーもない手抜き仕事の実態を確認しようとして手間と時間を無駄にしてしまいました。
「黙れ、太田尚樹!」と言いたい気分ですね。

太田尚樹(1941-)

結局、四方と岸のやり取りに立ち会った人はおらず、四方は何も記録を残さずに死んでしまったようですから、仮に吉松安弘氏が岸の記憶を否定する材料をどこかから入手していたとしても、それはせいぜい四方からの伝聞程度でしょうね。

>筆綾丸さん
>「後深草天皇宸翰消息」
これですね。
達筆だということが分かるだけで、全然読めませんが。

文化遺産オンライン

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

細川家の春画 2016/10/13(木) 12:57:38
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%9D%92%E6%96%87%E5%BA%AB
話に関連がなくて恐縮ながら、永青文庫は、夏ならば、藪蚊でも潜んでいそうな薄暗い所にあって、あまり好きな場所ではないのですが、話題の春画展(2015年)は見られず、残念なことをしました。
ウィキに、
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文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である永源庵(建仁寺塔頭、現在は正伝永源院)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られている。
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とあり、永青の由来を初めて知りました。「後深草天皇宸翰消息」という、なんだか懐かしいようなものまで所蔵していますね。

http://mainichi.jp/articles/20161013/k00/00m/040/037000c
真偽のほどは不明ながら、将棋ソフトの威力はここまで来ました。三浦九段の棋士生命は終りになるかもしれませんね。
竜王戦は読売新聞がカネにものを言わせて十段戦を発展させたものですが、名人戦の対局者に「不正」がなくてよかった、と考えるべきでしょうか。
人間対ソフトの対局場は平泉の中尊寺や比叡山の延暦寺でしたが、竜王戦第一局も京都天龍寺ということで仏門が続きますね。ゆくゆくは、ローマ法王庁の一室で対局してほしい。
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