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流布本も読んでみる。(その31)─「大将軍の仰にて候。暫軍を静めん」

2023-05-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「宇都宮四郎頼業」は父・入道(頼綱)を待っていたため、軍勢の主力には三日後れていたが、勢多の橋の戦、第二番の時に五十六騎にて到着した。
しかし、橋の上では戦わず、橋より上流、一町余りのところに陣を取った。
向こう岸からは敵の射る矢が雨のように降って来て、宇都宮四郎は川岸に立ち、応戦の矢を射た。
そこに「熊谷(小)次郎兵衛尉直鎮・高田武者所」が加わったが、熊谷は遠矢を射ようとしない。
「どうして射ないのだ」と人に言われると、「皆さんご存知のように、私は(寿永三年の)一の谷の戦いで弓手の小腕を射られてしまったので、遠矢はできないのです」と言って、敵の矢の射程の範囲外に馬を控えさせ、雑色・舎人たちに敵の射た矢を拾い集めさせて一同に配り、射るのを助けた。
熊谷が「一時に勝敗が決まることもあるまいから、皆さん、少し休みなさい」というので、一同が川岸近くで鎧を緩めて休んでいたが、敵は射続け、一本の矢が宇都宮四郎の兜の鉢に当たり、針で縫うように、鉢付の板(兜の鉢についている錣の第一番目の板)にガッシリ食い込んだ。
その矢の白い箆(竹の部分)には山鳥の羽で削った矢じるしがあったが、本当に長い矢であった。
宇都宮四郎は甲の鉢を射られて心穏やかではなく、起き上がって矢じるしを見ると、「信濃国住人・福地十郎俊政」とあり、十三束三伏の矢であった。
宇都宮も「宇都宮四郎頼成」と矢じるしをした、こちらも十三束二伏の長い矢を用意し、川岸に立って、しっかり引いて丁と放った。
その矢は川を斜めに三町ばかり飛んで、山田次郎が川岸に唐笠を指して戦闘の指揮を執っていたところに、山田の身を危うくするほど近く届いた。
山田は急いで笠を撤去し、上の壇に上った。
そこに「水尾崎」を守っていた「美濃の竪者観源」が船でやって来て、河中から宇都宮勢を射た。
その中に赤糸威の鎧を着けた男が殊更近づいてきたので、宇都宮四郎はいつもの中差を取て弓に番えて射たところ、男は頚の骨を射られて倒れた。
次に黒革威の鎧を着けた「法師武者」が、少しもひるまず近づいてきた所を、宇都宮が二の矢を番えて射たところ、鎧の右脇を箆深に射られて、川の中へ逆さまに落ちた。
その後、美濃の竪者も引き退いた。

という具合に宇都宮頼業の活躍が描かれますが、この場面で妙に面白いのは「「熊谷(小)次郎兵衛尉直鎮」ですね。
正しくは「直家」で、寿永三年(1184)二月、一の谷の合戦で熊谷直実の息子、直家が負傷した話は『平家物語』巻九・一ニ之懸に出てきます。
松林氏の「補注四一」からの孫引きですが、

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熊谷は馬の太腹射させて、はねれば、足をこえて下立たり。子息小次郎直家も、生年十六と名乗て、掻楯の際に馬のはなを突する程責寄て戦ひけるが、弓手の腕(かひな)を射させて、馬より飛び下、父と並でぞ立たりける。如何に小次郎手負たか。さ候。常に鎧つきせよ、裏掻すな、錣を傾よ、内甲射さすなとぞ教へける。
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という場面です。
寿永三年(1184)に十六歳だった熊谷直家は嘉応元年(1169)生まれであり、承久三年(1221)には五十三歳ですね。
他方、宇都宮(横田)頼業は建久六年(1195)生まれで、承久三年には二十七歳、熊谷直家より二十六歳も下です。
熊谷直家は遠矢を射ない代わりに雑色・舎人たちに敵の射た矢を拾い集めさせて一同に配ったり、直ぐに勝敗が決まる訳でもないのだから少し休みましょう、と言ったり、戦場でやたらと興奮せず、全体の状況を冷静に見つつ、若武者に適切なアドバイスをする老武者として描かれていて、どこか飄々とした趣もありますね。
また、「皆知し召様に、一谷の軍に弓手の小腕を射させて候間」は、『平家物語』と流布本の関係を考える上でも興味深い記述です。
一般には『平家物語』より流布本の成立が遅れると考えられていますが、私は流布本が慈光寺本に先行する「最古態本」だと考えるので、『平家物語』の成立時期と重なる可能性が高いですね。
ただ、これを論ずるのは今の私には無理で、数年先の課題となりそうです。

熊谷直家(1169-1221)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%B6
横田頼業(1195-1277)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E9%A0%BC%E6%A5%AD

さて、続きです。(p103)

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 相模守、刑六兵衛を召して、「この軍の有様を見るに、一日二日に事行ふべきとも見えず。されば、矢種〔やだね〕を尽くし、左〔さ〕み兵共打〔うた〕すべきにも非ず。且〔しばら〕く静めばやと思は如何に」と宣〔のたま〕へば、刑六兵衛、河端・橋爪に馳向て、「大将軍の仰にて候。暫軍を静めん」と呼〔よばは〕りけれ共、仰にも不随、猶も名乗懸/\戦けるが、御使度々に及、高らかに訇〔ののしり〕ければ、番ひたる矢を弛〔はづ〕し、河端・橋上の軍は留〔とどま〕りけり。
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北条時房は「刑六兵衛」に、「一日二日で勝てるとも思わない。矢種が尽きてしまってはまずいので、いったん攻撃を中止させよう」と言います。
「御使」となった「刑六兵衛」は時房の「仰」を大声で叫んで全軍に周知させようとしますが、皆興奮しているので、なかなか言うことを聞きません。
しかし、「刑六兵衛」が繰り返し時房の「仰」を叫び、やっと静まります。

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