五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

ほんとうに好きなことを

2010年03月16日 | 第2章 五感と体感
ほんとうに好きな仕事に巡り合うということは、容易なことではないかもしれません。

親からは「好きなことをして、食べていくなんて・・・」と呪文のように耳元で唱えられながらも、案外好きなことをして生活している両親を見ながら育ったように解釈しています。

「自分がほんとうに好きなこと」というのは、「本当に自分は何を求めているのだろう?」「何のために生きているのだろう?」「悔いのない人生ってなんだろう?」「自分は自分を大切にしているのだろうか?」そんな問いかけに直結しています。

芸能人になること、ピアニストになること、野球選手になること、、、好きなことを夢見て、自分を育て上げていくことは、それらの問いに答えながら生きている証拠でもあります。問いに答えながら、迷い、苦しんでいくことから、ほんとうに好きなことが見えてくるのです。

「好きなことをしながら、生きていけるよ。だからほんとうに好きなことを見つけようよ。見つけたら、どうやったら実現できるか、やってみようよ。」

そんな言葉をかけられる春休みでありますように・・・

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口に出す言葉

2010年03月15日 | 第2章 五感と体感
わかっちゃいるけど、ついつい出てしまう言葉もあれば、意識せずに吐き出している言葉もあります。

メールも同じです。ツイッターでのつぶやきでは、なおさらダイレクトに「人と成り」が見えてきます。

自己愛の表現を自分がどこまで抑制することができるか?

自己受容したうえでの抑制を目指している私は反省を繰り返す日々ですが、やはり、抑制している状態が続くと、キリキリと胃が痛むことがあります。まだまだ修業が足りません。

かといって、自己愛の傾向を他者に表現したところで、相手にストレスを与えるだけなので、カウンセリングの学びも大事ですが、別の方法で解消することも心がけています。

「だから私の言うことが正しかったじゃない!」とか、「私はあなたのことはよくわかるから、こうやって心配しているのよ」とか、「将来のことも考えて行動しなさい!」とか、

「あなたのことをよく知っているのは私である」ということはあり得ません。

私のことは私ですらよくわからないのです。だから葛藤し、迷い、悩むのです。

自分の子供や友達を心配する時に使う「自分の言葉の表現傾向」を、再点検してみるのも良いかもしれません。

自己愛から発生する防衛機制を子供や友達に発信している自分に気付くと、言葉を慎む抑制が上手にできるように思います。

私の場合は、感情転移が多いと分析しています。そんなわけで、言いたいことをいったん自分の心に落としてみると、余計な反省をしなくて済む場合が多いようです。

日々の修業を続けていくと、いつしかそれが自分の個性になっていくようです。

天井天下唯我独尊!と云いながら生まれてきた釈迦も、修行あっての悟りです。
十字架につけられ「楽園だ」と云ったキリストも、苦しみのなかで愛そのものをみたのだと思います。


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無骨な統合

2010年03月14日 | 第2章 五感と体感
広島の島を舞台にした過去に一世を風靡した作家と女性編集者の物語。
昨晩、室生犀星原作の「火の魚」という題名のドラマを観ました。

昨年暮れにBSで放映され、たまたま、そのドラマ出合った私はテレビに釘付けになりました。今回二度目の鑑賞です。

死と向き合った時に陥る「不安感」「恐怖感」「孤独感」を一人の人間が、その感情をどう解釈し、処理していくか。

人の「心と体と魂」から湧き出す「感情」が、「思考」と「行動」を生みだしていきます。
その思考と行動は、人によって違うのです。

孤独感を克服するために自分はどんな思考と行動をしているのだろう?

改めて考えさせられました。

一見高慢な作家は、実は孤独の淵を彷徨いながら無骨な自分と向き合った生活をしています。東京から小さな島に移り住み10年、毎日自分の健康を気遣い、島の人々に悪態を見せながら暮らしています。
そんな暮らしをしている彼のもとに、若い女性編集者が担当としてやってきました。

否定的な作家の感情は、いつしか人を好ましく思うことに戸惑う自分との葛藤へと変化していきます。
その作家の無骨なアプローチが、彼女の孤独の淵をだんだんと顕わにしていくのです。

二人の登場人物の思考と行動の個性の差を表現しながら、人の感情とアイデンティティの統合に向けての葛藤とプロセスに焦点を当てた脚本に巧さを感じました。

孤独感を顕わにすることは残酷なことでも悲しいことでもないのです。
自分の中にある真実が顕わになるということは、自分のアイデンティティを統合させるための一歩でもあるのですから。

癌が再発した彼女を見舞う無骨な作家の手には、赤い薔薇の大きな花束。
無骨な男のアイデンティティの統合に悔いの無い喜びが湧き出します。

「自分が自分とどう向き合うか?」
自分の内に潜む愛と信頼が目覚めたときに、人の本質である不安感を浄化させていくように思いました。つまり、愛と信頼に対局する不安感や不信感は、感情の種類としては同じものなのです。同質、と表現したほうがよいかもしれません。同質であるから故に、葛藤に苦しみます。
普遍性とは、理屈では語りにくく、自分の中に起こる葛藤が浄化されつつあるときに感じる体感から見えてくるもののように思います。

今朝はちょっと屁理屈をこねすぎたかな。。。

兎も角、「火の魚」、面白かったです。


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奈良のお水取り

2010年03月13日 | 第2章 五感と体感
毎年奈良のお水取りのことを書かなくてはけじめがつきません。
3月1日~14日まで行われる東大寺・二月堂の修二会のことです。
お水取りが終わると春が訪れます。
仏教もキリスト教も、この時期は罪を購う季節です。
そして、仏教は釈迦の誕生日に向けて、キリスト教では復活祭に向けて、双方それぞれの儀式で祈りを捧げます。

春分は、一年の始まりを告げるシンボルでもあります。この季節を起点として一年の起承転結の「起」がスタートします。

文化人類学、比較宗教学的見地で「これらの宗教儀式」を眺めると、人の魂を純粋に信じることができます。

人は何を欲して、何を喜びとして生きているのだろう?

自分の家族の幸せや、仕事の成功を願い、日々生きる人の営みは自分の身の回りのことを考えた狭い領域のことのように見えますが、実は、民族や宗教を超えた国境無き、柵もない、永遠普遍の魂の領域だと思うのです。

昨晩12日は、お水取りのクライマックスである大松明の日でした。無病息災を祈願する人々はこの14日間の儀式に駆けつけ松明の火の粉を浴びます。

私の記憶が正しければ、休むことなく続けられ、今回は1,257年目だと思います。

魂の躍動と連鎖を松明の炎を重ね合わせ、華厳の時を体感するときに、人の本質に自分自身が巡り会うような清浄感を味わうのです。

国境も無く、柵(サク)も無く、生死の境も無い永遠普遍の魂との出会いは、この時期の祈りの中で自己の内に具現化されていくのです。

自分とは何か?

自分との出会いは、自分自身の内から目覚める自己との出会いです。
自己の内にある答えは、魂を見据えたいと願う情動の中から見出されていくのかもしれません。

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適応する

2010年03月12日 | 第2章 五感と体感
人は、家庭と社会、さまざまな環境の中で自分のアイデンティティを意識、無意識に関わらずバランス取りながら生きています。

たとえば、学校の中でストレスを撒き散らしているように見える子供は、「学校以外の環境や成育史とのバランスを取ろうとしているから、このような現象を起こしている、」という見方ができます。

その場の現象だけを捉えて、蓋をするような対処をしても何の解決にもなりません。

人は、常に理想と現実のギャップの中で漂っています。

「あの人は二重人格だ」と簡単に口にする人がいますが、その言葉は慎んだほうがよいと思います。

自分自身の本当の姿は、一定した感情ものではないからです。

普遍的な安定の理想を無意識に捉えているからこそ、自分を保つための現象を起こすのです。
自分に起こる現象とは、「思考と感情と行動」とも言えると思います。
自分を保つために起こることは、年月を重ねることによって「傾向」となっていきます。
その「傾向」が個性へと結びついていきます。

子供は個性を育む大事な時期です。

学校や保護者、友達、社会が、「一人の人間」に「一定の方向からだけ目を向ける」のではなく、多様な角度から見守ることを意識して欲しいものです。

自分自身が「ある環境に適応するため」に何をしているか、自問自答してみましょう。
自問自答とは、その環境に適応できない自分の「理想と現実のギャップ」を意識に上げてみることです。

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思春期

2010年03月11日 | 第2章 五感と体感
将来ある子供たちに希望を感じながら仕事をさせていただいていますが、いつも思うのは、若さは宝だということです。

未知への世界に対する不安感、
自己の目覚めの混乱感、
理想と現実のギャップに対する対処不能の自分。。。
感情の広がりへの戸惑い。。。

自分の内に湧きあがる自立心は、友達や家族や社会との不和感や孤立感、大きな孤独感、混乱感、など、得も知れないカオスの世界へと誘われていきます。

このカオスがもたらす精神情動と家族や友達の関係がうまく噛み合わなくなってくると、理想と現実のギャップによるアイデンティティの統合が取りにくくなってくるようです。

子供の素地や個性は、今に出来上がったものではありません。
生まれてから今日までの、環境が大きく影響しています。
(遺伝や老化(生まれてから死ぬまでの体の内容)、免疫、分泌、自律神経も忘れてはなりません)

つまり、今、我が子に表れている現象は、今に始まったものではない、ということです。
我が子のことだけではありません。人とはそういうふうに成っているようです。

思春期に突入したであろう子供と向き合う時、親である私たちが、何を大切にして今まで生きてきたか?幸福感とは何か?幸福の条件とは何か?愛する愛されるということは何か?を改めて自問自答する時期でもあるようです。

子供に起こる現象と親に湧きあがる不安感をきっちりと分ける意識をしながら、これらのことを自問自答してみると、何かが見えてくるかもしれません。

そろそろ春休み。お子様と過ごす時間も増えてきます。

学年末から新学期に向けて、もう一度、理想と現実のギャップについて意識しながら書いていこうと思います。

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囚われのマカロン

2010年03月10日 | 第2章 五感と体感
五感の中で一番何が記憶に留まるでしょうか?

何年たっても鮮明に蘇る記憶は、私の場合「匂いと味」です。

確かに視覚もそうですが、視覚の記憶の前に蘇るのが触感(体感)や匂い、味、音から視覚の記憶が確かなものとして蘇ってきます。

先日、パリに行かれた方からマカロン「お菓子」を頂きました。

餡子のお菓子も大好きですが、このマカロンは我が家では争奪戦になります。いろいろな味があり、その味の好みが母子で一緒だからです。帰りの遅い息子のスキを狙い、大好きなカシス味を一つ頂き先手を打ちました。同じ味は二つずつ。うかうかしていると二つとも食べられてしまうからです。。。口に広がるのは、酸味と甘みのカシス味。そうすると、パリの街に響くクラクションの音とか石畳の路を歩く靴音が蘇ってくるのです。「あーーーー、パリに行きたい
確かに日本はパティシエブームです。でも、違うのです。本場は違うのです。パリの空気の中で作るからなのでしょうか。頂く本人の思い込みも大きく影響しそうです。「パリのマカロン」という囚われが、五感を蘇らせるからだと思います。

今年はパリに行けるかな~~そうしたらカシス味のマカロンを大人買いしちゃおうかな~
いやいや、ブルーベリーも美味しいのよね~~キャラメル味も良いし、レモン味もやめられない。。。

こんな寒い日は、アツアツのキッシュも良いですね~、、、パサージュ(アーケード)の中にある小さなキッシュ屋さんの白熱灯の暖かさを思い出し、雑踏が聴こえてきます。

貴重なお土産、ありがとうございました。
おかげさまで、こんな感じで楽しんでおります。

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何を大切にするか?

2010年03月09日 | 第2章 五感と体感
「何を大切にするか?」

「倫理道徳に関係なく、湧きあがる自己の感情を受容しましょう。。。」
そんなことを自ら口にしながら、日々起こる出来事に対して湧きあがる自己の感情は、自分の中にある倫理道徳的概念から湧きあがる感情であることは、しょっちゅうあります。

でも、ほんとうに自分の心と体と魂を大切にするならば、倫理道徳的概念が揺るぎなく必要な場合もあります。

たとえば、「いけないものをいけない!」と、子供に伝えるには、親のどんな防衛機制からアプローチしていけばよいのでしょう。

人が幸せに生きていくための規範概念は、幼いころの経験=教育によって育まれていくように思いますが、はてさて、、、
その規範概念は、正しいものなのか、病的なものなのか?
私はいつもその問題にぶつかります。

「自分の何を大切にするか?」

いつも頭に浮かぶ言葉があります。それは「人の体は神の神殿である」という聖書の言葉です。

自分が神になる、というものではありません。「神そのものに含まれている自分」という解釈をするならば、その神の神殿に委ねる自分は、何を大切にすればよいのか?というメビウスの輪のような問いかけに戻っていきます。

「自分の心と体と魂を大切」にして、悔いのない今を送るとしたら、私は何を大切にするか?

自分の心と体と魂を中心に、自分から湧き出す感情を大切にしながら、現象に私そのものを委ねていくこと、これが今の私の答えかな、、、と思います。

昨日は、ある学校の勉強会最終日でした。今年度から始めた勉強会は、来年度二回目となります。勉強会は、理想的な温かい雰囲気の中で、皆様が自然とエンカウンター(自己開示)に導かれていき、私自身もよき学びとなりました。その上、陰で支援してくださったことを深く深く感謝しております。「こうやって、私も育てられていくんだな~」、というのが正直な感想です。来年度も楽しく和やかな雰囲気で勉強会をサポートしていきますので、よろしくお付き合いください。感謝をこめて。。。

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久良岐能舞台

2010年03月08日 | 第2章 五感と体感
最近ご縁のある能舞台は、横浜市磯子区にあります。
久良岐能舞台の佇む風情に、ほかの能舞台では経験できない豊かさを体験できます。

公園の一角にあるのですが、その能舞台は、山に囲まれた高い木立の中にあります。
能楽堂の障子を開けると野趣を意識したさりげない植え込みの風景が目に飛び込み、心が洗われます。
ある程度に抑えた庭の造りが、さりげなく人の心に寄り添うのです。

雨で濡れた庭を眺めながら能舞台の前に座ると、我が喧騒の日々を忘れます。

昨日は緊張のほぐれた自分を委ねる時間を持つことができました。

ちょうど、奈良の東大寺二月堂はお水取りの最中です。14日までの二週間、心身静かに過ごしていたいと思います。

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音の情景

2010年03月07日 | 第2章 五感と体感
バンドネオンのコンサートを聴いてきました。

アルゼンチンタンゴには欠かせないアコーディオンと似た形の蛇腹の楽器です。
バンドネオンはもともとドイツで生まれた楽器で、貧しい人のためのミサに使われていたのが起源だそうです。「場末のミサ」の楽器という言葉があるそうです。

なるほど、船に乗せる楽器としては、持ちやすく移動が簡単です。

タンゴの曲だけではなく、現代音楽の理論にに憂いげな喜怒哀楽を入れたような理屈っぽさを感じるものもあります。フラメンコにもそんな要素があるように思いますが、情熱の彷彿が理性的に体系付けられているからゆえに聴く者の感性をより広げていくのでしょうか。
アルゼンチンには、深い魅力のある知的な芸術家や作家が多くいるのは、海を隔てたスペインとの歴史的背景が、思索を深めるアイデンティティを育んだのかもしれません。

、、、ラテン音楽を聴いていると、意外にも屁理屈をこねる自分がいます。
自分の中からは絶対に湧いてこない想像力に対する嫉妬もあるかな、、、

バンドネオンやアコーディオンはパリの街角で平素耳にする音でもあります。屁理屈をこねながらもパリの街の乾いた空気と石の建物から生み出される反射音が蘇りました。セーヌ川のほとりを歩きながらライラックの彩(いろどり)を楽しむ気分は最高です。春になると冬の灰色の街を一気に明るくします。音楽から見えてくる情景は、なぜかずっとパリでした。

これからますます活躍する若きバンドネオン奏者平田さんにエールを送ります。ありがとうございました。楽しみました。また聴きに伺います。

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人が好き「傾聴10」

2010年03月06日 | 第1章 意識と知覚
人が好きですか?

傾聴について書いてきましたが、今日がとりえず最終回です。
時期がきましたらまた書きます。

昔、人嫌いの神父さんに会ったことがあります。私はその神父さんを知りたいと思い、ミサを通して私なりの心の交流を図ろうと思いましたが、無駄でした。図ろうと思う私のほうが気持ち悪さを感じ、得も知れぬ不快感と不安感が自分を支配するようになりました。
そこで、どんなことを感じたかというと、
「自己肯定・他者肯定」の問題です。
表面的には「自己肯定・他者肯定」なのですが、彼の心の奥底にある「自己否定・他者否定」が私を気持ち悪くさせたようです。
つまり、「神父さんは皆、人が好きである」という私の思い込みと理想が、私自身のアイデンティティのギャップを生み、不安感を呼び起こしたのです。

それ以降、神父にも人嫌いは居るのだ。。。人間だもんね。。。でも、これからはそういう人には近づくのはよそう。。。ということを学習しました。

私は人が好きです。
人の持つ感情の曼荼羅に触れることは、私自身の中に宿る見えてこない感情を呼び起こしていきます。
人を知ることは、自分を知ることと同じなのです。
幼いころから、父の転勤の関係で、知らない土地で、風習の違う人々と交流する術を身につけてきた私は、人の感情を見つめることが習慣となり、いつしかそれを楽しむようになっていました。
同じ言語を持つ人々との交流の中にも異文化交流の面白さがあります。

「どうやったら傾聴がうまくできるのか」10日間にわたり、理想的なことを書いてきましたが、これらの内容を修業していくのが「傾聴したい人」に課せられた課題です。

「個性の美」を人から見出すことのできる聴き手でありたいと思います。

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五感で観る「傾聴9」

2010年03月05日 | 第1章 意識と知覚
話を聞く中で、話を聴くこととはどんなことなのか?

話の内容に囚われて、相手の不安感に添えなくては傾聴ではありません。

自分の感情が上手に言語化され、その感情が自分から湧きあがっているものだと自覚することができるようになれば、あとは具体的な解決方法を考えるだけです。

今湧き出している自己の感情を観ることにお供するのがカウンセラーの役目です。

答えは自分の内にあります。

さて、そのお供に大事なのがカウンセラーの「幅ある五感と体感」です。
(五感とは聞くこと・見ること、匂い、味覚、触覚)

五感を通して目の前の人から観えてくるものは、言葉以上の何かを訴えています。
言葉以上の何かを体感を通して感じることが傾聴する側に必要なことです。

相手の秘密の内容を知ることが傾聴ではありません。

五感を体感し、それを言語化し、解釈してく訓練を「感受性訓練」と云います。

そもそも私のブログは、私自身の五感の言語化を訓練するために書き始めました。
わからないことへの興味は生涯持ち続けたいものです。

明日は傾聴訓練の「熱意」について書きます。

傾聴訓練おさらいメモ:「無防備」「感情の共感」「あるがままの受容」「間」「理解力」「熱意(人が好き?)」

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何を聴くのか「傾聴8」

2010年03月04日 | 第1章 意識と知覚
傾聴の修練で大事なことは、傾聴する人自身の傾向を見つめることです。

自分の傾向を知るということはどういうことでしょうか?
それは、自分の思考と感情と行動を受容する努力をしていることに繋がっていきます。
受容することで、これから起こりうる「傾向」に予測を立てることができます。
予測を立てることができると、想定外の話題で慌てふためくという事態を防ぐことができます。
つまり、心の安定感を保つ術は、自分の成育史を自己分析していくことから始まるのです。

そして、もうひとつ大事なことは、「話を聞く」のではありません。「話を聴く」のです。

聞くというのは、話の内容のことです。
聴くというのは、話す言葉から表れる人の「思考と感情と行動」を総合的に見据えながら、その人の「感情」に焦点を当てることだと私は理解しています。

話すことですっきりするのは話す本人です。
聴き手は、その話す方の感情に寄り添うのです。

話の内容に惑わされると疲れますが、感情を理解し、ありのままの感情を受容しようと心がけると話の内容が薄っぺらい表層的なものに見えてきます。

話す人の内容を聞きながら、その人の感情を「否定もせず肯定もせず」聴いていくことが傾聴です。

では、言葉には表れない見えないものを見る力をつけるには、何が必要なのでしょうか?

明日は、五感について書いてみます。

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‘聴く’と‘聞く’の違い「傾聴7」

2010年03月03日 | 第1章 意識と知覚
「私は質問が得意だから人の話を聞くのが上手である」

と主張する人に出会うと、私は戸惑います。

質問は、時として刃になります。
じりじりと突きつける刃になったり、ぐさっと刺さる刃になったり、刃で心臓をえぐられるような不快感など、多様な「刃」の体感経験を思い出します。

私の概念における「質問」は、明確に答えられる氏名とか家族構成とか、、、せいぜいそのくらいかな、、、と思います。相手の信頼感を感じることができて初めて「質問してもいいですか?」と必ず聞くのが礼儀かもしれません。もちろん、年齢問わずです。

傾聴しようと心がけるのであれば、
聴くことと聞くことの違いを傾聴する人はわきまえておく必要がありそうです。

モヤモヤした感情や悩み、不安を解決したい、自分のほんとうの悩みは語ることから見えてくるようですが、話したい的確な言葉が自分の口から出てくることが理想ですが、感情を表現する的確な言葉は、やすやすと出てくるわけではわりません。

そんなわけで、聞くことよりも「聴く」ことが大事な作業になってきます。
そのためには、言葉や表情、しぐさから醸し出すものを感じ取っていく必要があります。

傾聴に感受性訓練が必要なのはそんな所以もあるように思います。

心と体にぴったりくる腑に落ちる体感は、話す本人にしか分かりません。

聴き手が腑に落ちるのではないことを肝に銘じてから、傾聴訓練を積んでいきたいものです。

明日、もう少し「聴くこと」について書いてみます。

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理解力「傾聴6」

2010年03月02日 | 第1章 意識と知覚
私たちはいろいろな職業の人に出合います。年齢、性別、それぞれです。
地球の人口は6,700,000,000人(67億人)と云われています。でもその67億人一人一人の「魂と心と体」は、尊い個性の美で成っています。

「命の尊厳」は、生命の尊厳だけのことを言っているのではありません。「心と体と魂」すべてのことを言っています。

信頼関係を持つことができ、共感しつつ人の不安にお供しながら、言葉に秘められた心の奥底にある不安感を感じ取ることは、あらゆる五感を体感する感受性が必要です。

ただ、自分の感受性に翻弄され自分の取り扱いが上手でなければ、傾聴は難しいかもしれません。ミイラ取りがミイラ。。。です。

先日、匂いが気になりました。無意識が不安を呼び起こしているケースだと思いますが、人から発する匂いから感情の動きを察することができます。話すことを傾聴するだけではなく五感すべてで傾聴していく必要があります。

心が不安定な人は、五感が滞っている人をちゃんと避けます。不思議だと思いますが、その人の原初感情が「怖い・怖くない」を見分けているのです。

理解することは「話す内容」を理解することではなく、「感情」を理解することです。

この理解力を高めるには、傾聴する人の感受性を訓練する必要があると思います。
訓練を積んでいくと、人の衣である表層的なことが気にならなくなっていきます。

「衣」、、、私も衣を着ています。コートになったり、薄着になったり、いろいろです。
でも、それが常に鎧でないよう心がけたいものです。

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