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歩くことが唯一の趣味ですから。

津山城

2022-04-03 | Weblog

織田信長の小姓をつとめ、本能寺の変で死んだ森蘭丸の弟、森忠政が慶長9年(1604)から足かけ13年で築いた津山城は明治6年に取り壊しが決まり、明治7年から8年に石垣を残して全ての建物が解体されてしまった。築城開始から400年後の平成16年(2004)に備中櫓だけ復元されて現在の姿はこう。

ちょこんと乗ってる白いのが備中櫓。しかし石垣は立派だ。1604年から足かけ13年で築いたということは、築城技術のピークの時期に作られたと津山の人は自慢する。たしかに織田信長が死んだ後、近江の穴太衆が石工技術を全国に伝えて築城術が飛躍的に伸び、江戸城の天下普請を通じてピークに達したと城好きの人は口を揃える。

森蘭丸の弟、森忠政は本能寺の変の後は秀吉に仕え、のち家康に仕えて美作18万6500石を与えられ津山に入封。それから津山城の築城に着手して、城下町津山の基をなした。というわけで城にこんな銅像がある。森家は4代つづき、以後は松平家が幕末まで9代にわたり藩主をつとめた。

どこの城もだいたい明治になって取り壊された後、せめて年に一度くらいは大勢の人に親しまれるようにと桜を植える。それが花見のソメイヨシノを全国に広めた。城が現役だった江戸時代までは一斉に散る桜など縁起でもないので植えられず、常緑樹で縁起のいい松ばかり生えていた。松は燃料になるので非常時の備えを兼ねた。

桜じゃなくて松の木だったらと想像しながら歩いて回る。確かに立派な石垣だから、見える。自分にも城郭が見える。そんなつもりで徘徊すると石垣だけの城跡めぐりも面白いような気がしなくもなくもない。しまった、面白くないという意味になってたらどうしよう。

矢穴を彫ったけど割らないで積んだ石があった。見当が違ったのだろうか。あそこに矢(クサビ)を打ち込んで大玄能で叩き割ったり、木製の矢を打ち込んで水や湯をかけ膨張させて石を割ったり、縄を詰め込んで火をつけて石を割ったり、いろいろな石工技術があったらしい。詳しい人に聞いたことがある。

ハート型の石が石垣の中にあった。この前でツーショット写真を撮ったカップルは必ず別れると詳しい人に聞いたことがある。どうしてそんなことに詳しいのか、事情がありそうなので気になったけど気にならないフリを装って無難にやりすごした。ぼくはいつもこうなんです。

天守があったところまで上り、津山の町を見渡す。津山三十人殺しはどっちのほうで起きたんだろう。昭和13年(1938年)性的な恨みを持った犯人が計画的に大量殺害を実行したという『八つ墓村』のモデルになった事件……たたりじゃ、八つ墓村の祟りじゃ……角川映画のCMが脳内でループする。城を歩きながら余計なことばかり考えてしまう。ぼくはいつもこうなんです。

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