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富山城

2022-05-22 | Weblog

路面電車が交通の妨げにならず日常の足になってる地方都市の暮らしが羨ましい。そんなことを、たしか寅さん好きの友人が酒を飲みつつ語ったのは何年も前だけど妙に覚えてる。富山も路面電車が現役だから人が住みやすい場所だろう。心なしか空気がおいしい。花がきれい。

それに何を食べてもうまい。だから名物をわざわざ食べようと思わないのに、駅そばで腹ごしらえに白海老の天麩羅そば食べたら結局うまかった。魅力の多い富山だけど観光する機会になかなか恵まれなくて、あまりよく知らない。初めて訪れたのは寝台急行「北陸」がまだ運行してた時期で、訪れたというよりも寝台の車窓から明るんだ街とか田畑の美しさに陶然としたまま、降り立つことなく金沢まで運ばれた。

それから富山の地面を両足で踏み締めたことは5本の指が余るほどあるといえばあるけど、それは立山黒部アルペンルートを観光するための乗り換えだったり、黒部峡谷トロッコ電車で観光するための乗り換えだったり。満を持して北陸新幹線が開通したときは仕事でいち早く新幹線に乗ったものの、やっぱり富山は通過して金沢に行ってしまった。行きも帰りも富山は通過した。

ろくに観光したことがない富山でじっくり何かを見ようと思った。そうなると富山城ぐらいしか行くところがない。城跡の公園には博物館もあるというから、どこだろうと探してみたら取ってつけた櫓のような天守閣のようなあれが博物館だという。道理で小ぢんまりしてる。

富山城は土塁を主体にしていたから、ごく一部にしか石垣がない。だから城址公園も平べったくて、どこが城なのか一見よくわからない。昭和29年に富山産業大博覧会が開催されたとき、残された石垣の上に建てられた鉄筋コンクリートの城みたいなのが富山市郷土資料館(富山城)だった。

がんばって城らしく見えるアングルで撮った。この外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考にデザインされており、元々あった富山城の復元ではない。復元どころか富山城がどんな姿をしていたか現在よくわかっていない。というより城らしい城の姿をしていたことが歴史上ほとんどないと、資料館の展示を見るとわかる。

富山(というか越中)は応仁の乱のあと、守護の畠山氏がこないから守護代が3人で分割統治していた。代理の管理人みたいなものだ。一向一揆が起こって守護代を殺したり追い払ったり、物騒なことになったので周辺の上杉氏や武田氏など大名が鎮圧を図る。すると一揆勢力と結んだ守護代の神保長職が拠点として土塁(富山城)を築いた。

けしからんぞと攻め込んだ上杉謙信が富山城を落とし、そんな上杉謙信を武田信玄が一向一揆と共謀して攻め立て、しかし謙信が発奮して信玄と一向一揆を越中から追い払い、越中全域をほぼ支配下に置いたのも束の間、やがて織田信長の勢力が越中まで伸びてきた。信長と結んだ神保長住(長職の子)が富山城に入り、その支援のために信長が遣わした佐々成政が何だかんだで越中一国を与えられ富山城主に収まった。

本能寺の変のあと佐々成政は豊臣秀吉によって越中の支配を安堵されたにもかかわらず、秀吉と家康が信長の後継者選びをめぐって対立すると、織田信雄を推す家康側に佐々成政がついたため、秀吉の征討を受けて富山城は破却された。(その頃も富山城は土塁が主体だった)

鉄筋コンクリートの資料館はこのように土足で階段を上がることができる。現存天守だと履き物を脱がなきゃいけないから、そこが決定的に違う。さて、秀吉が征討して破却した富山城には、のちに前田利家の嫡男の利長が入城し城郭として整備されかけたが、まもなく大火で焼失して廃城になった。それから昭和29年に鉄筋コンクリートの資料館ができるまで、富山城が城らしい城だった期間はほとんどない。

ちなみに前田利長は富山城を捨て、高岡に東京ドーム約4.5個分の広さを誇る巨城を築いた。そうとは知らず前日に訪ねた高岡城址(高岡古城公園)は、富山城址と比べると規模がかなり大きく、城郭としての整備が行き届いているように思われた。

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