標高2612mの千畳敷カールを真冬に訪ねたら吹雪に視界を閉ざされて散策すらままならなかった(どこがどうカールなのか不明だった)ので、やはり冬場に高山などへ行くものではないと反省しながら、日本でいちばん標高が高いホテル(ほぼ山小屋)から冬装備で山行する人びとを見送りつつ、当分のあいだは平地か岡を歩くにとどめようと心に誓うのであった。
そこで人文社の「郷土資料事典 県別シリーズ12 東京都・観光と旅」を買い求め、どこかにまだ行ったことのない、冬でも安心して歩けそうな町や岡がないか隅々まで目を通した結果、町田市の七国山へ出かけてみることにした。「薬師池公園の西約500mに盛り上がる山。高さは128mとさほどないが、周囲にさえぎるものが無いため、頂上からの眺めはよい。武蔵・相模など、東国7ヵ国が一望にできるというのでこの名があるが、それほどの眺望はきかない。」……昭和40年代の記述なので、それから半世紀ぐらい経つけれど、いまどうなっているだろう?
とりあえず薬師池公園までのバスがあるかどうか検索してみると、いまでも町田駅からバスが出ており、公園に「四季彩の杜」なんぞという美称がついてる。これなら、遭難することもなさそう。バス乗り場は分かりにくいところにあったけど、ネットに案内図が出ていたからスクリーンショットをスマホで撮って格納しておいたので迷うこともなかった。昭和40年代と違って便利になったものだ。
鎌倉街道を走るバスを薬師池の停留所で下車して公園に入ると水車が回っていた。戦国時代には北条氏照の支配領域だったという薬師池公園の高みには、名称の由来になった薬師堂がある。行基が天平のころに開基したと伝えられる寺は多いがここもそうで、現存する薬師堂は明治16年の再建だと公園の案内板に書いてあった。この水車は平成に設営されたものだろうか。
水車の向こうにあるのが薬師池だった。耕地をつぶして溜池にしたのが寛永年間(1624〜43)と伝えられているそうだが、宝永4年(1707)富士山の噴火による降灰で埋まり、翌年から3年かけて浚い普請が行われた。文化14年(1817)に再び泥砂に埋まり浚い普請がまた行われた。200年前の人も300年前の人も400年前の人もなかなか大変だったようだ。
町田へ抜ける道に面していたらしい医家の住居が公園に移築してある。茅葺入母屋屋根のこの家は桁行六間半、梁行四間半の大きさで、後方に杉皮葺の風呂場と便所を突き出しているが、家の向きは農家と違って妻入りであり、内部の間取りも町屋と似たところがあると案内板に書いてあった。ちょっとなに言ってるかわからないけど類例の少ない幕末の民家なのだとか。
冬日に照らされながら西のほうへ登るとそこに薬師堂があるらしいので石段を歩いて行ってみる。手前に「だんご」とノボリを立てた茶屋があったからブログのネタに食べてみようかと思ったが、店に入っても「いらっしゃい」とも言わないし「だんごありますか?」と尋ねたら正午すぎなのに「売り切れました」と答えて他に何があるか案内もしない。「おもてにメニューが出てますから」と店番のおばさんに追い払われて、すっかり食べる気なくした。
あれが薬師堂か……やたらに「秘佛薬師如来」とノボリを立ててある。ノボリは「だんご」で懲りたから、どうせまた売り切れか外出中かなにかだろうと期待しないで近づいたら、「お履き物のままこちらまでお上がりください」なんて親切なことがお堂の脇に書いてある。
お言葉に甘えてお堂に上がると秘佛の薬師如来なのかお前立ちなのか、仏像を覗き見できた。このお堂の向こうにある裏山がどうも七国山らしかった。回り道して登って降りてきた。新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしに行くとき通ったのが七国山で、嘘か誠かそのとき掘ったという古井戸があったけど、とくにどうということはなかった。多分フェイクだと思った。バスで町田まで戻って、小田急線で新宿まで戻った。
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