散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

興禅寺

2019-06-17 | Weblog
よく撮影に行くスタジオの近くにも寺がいくつかある。梅雨の晴れ間、そのひとつ興禅寺のほうへ
南北線の白金台駅から歩いてみた。港区白金6―14―6、煉瓦塀で囲まれた聖心女学院の敷地を
まわりこむように路地を進むと住宅街の一角にその寺があった。


ふつうの民家のように見えるが奥に墓地がある

大政奉還した幕府をしつこく滅ぼそうとする薩長が錦の御旗を得て大阪城の徳川慶喜を攻めたとき、
守りを固める会津藩士らを置き去りにして慶喜が船で江戸へ逃げたことが、会津藩士たちはショック
だったにちがいない。おまけに自分たちの藩主を慶喜が江戸に連れて帰ったもんだから、そのことを
藩主から知らされていた腹心の部下があとで槍玉に上げられた。


藩主をそそのかした張本人として

将軍も藩主も逃げるはずないのに逃げたのは、藩主の腹心の部下がそのように進言したのであろう
と思い込まなければ、残された藩士たちは心の整理がつかなかった。だから腹心の部下に詰め腹を
切らせた。それで藩士たちが収まるならばと、神保修理長輝は切腹した。その墓がこれ。神保長輝墓
と石に刻んである。


会津藩を敗戦に導いた張本人として

すぐ左に並ぶのは、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争にいたるまで、薩長率いる官軍にこてんぱんに
追討された会津藩の戦争責任を一身に負って切腹した萱野権兵衛長修の墓。やはり誰かしら切腹
しなければ会津藩士だけでなく奥羽越列藩同盟の遺族も、薩長の志士も心の整理がつかなかった。
どうしても犠牲が必要だったらしい。


理不尽を受け入れて死んだ二人の墓は隣同士


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