散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

酒田

2010-10-04 | Weblog
いくつもりなかったんだけど、いってきてくれと頼まれたから酒田に寄り道することにした。

焼きそばを食べに・・・もとい、仕事の用事で横手まで日帰り出張したとき、移動ばかりで疲れたので
帰りに新庄で一泊した。それが土曜の夜で、まったく期待ハズレだった焼きそばの穴を埋めるように、
同行したライターさんと山形の酒で喉を湿らせていると、いつしか酒田の話になったのだ。

明けて日曜日、ライターさんは東京で仕事があるから山形新幹線つばさで戻らなくちゃいけないけど、
ぼくはヒマだから10:14の陸羽西線にガタゴトゆられて酒田に向かう。


あいにくの天気だった

江戸時代に西廻り航路の海運が盛んになると、酒田は北前船の拠点として栄え、春が訪れると船が
出入りして諸国からの荷で賑わったという。


北前船

酒田の廻船問屋、鐙屋(あぶみや)のことが、井原西鶴の『日本永代蔵』に記されているんだそうな。
それは、巻の二に収められている「舟人馬かた鐙屋の庭」で・・・


日本永代蔵

「ここに酒田の町に、鐙屋といへる大問屋住みけるが、昔はわずかなる人宿せしに、その身才覚にて、
近年次第に家栄へ、諸国の客をひきうけ、北の国一番の米の買入れ、惣左衛門といふ名をしらざるは
なし。表口三十間裏行六十五間を、家蔵に立つづけ、台所の有様、目を覚しける」とある。


当時の様子でーす

当時の廻船問屋は、北前船が港につくと、船頭や荷主に宿とお料理を提供して商談を行ったと。だから
こんなごちそうをつくってもてなしているわけで、商談が成立すると手数料を取ったんだそうな。完全に、
貨幣経済の世の中になっている。米本位で石高制を敷いた幕藩体制、最初から時代遅れやん。


お料理でーす

「国指定史跡 旧鐙屋」として、大人一般310円で家屋や庭や土蔵などが見学できるようになっている。
石置杉皮葺屋根の町屋造りで、内部には写真のような展示物があり、とてもわかりやすい。


お運びしまーす

時代が下がって武家の財政が傾くと、廻船問屋の豪商は、庄内藩主の酒井家から援助を請われたり、
再建策を求められたりした。代表的な豪商が、鐙屋の近所に住んでいた本間光丘という人。


本間家旧本邸

「商人ふぜいが!」ということで財政改革案が庄内藩に採用されないと、援助を求めてきた米沢藩に
おなじ改革案を提案して、名君の誉れ高き上杉鷹山を支えるかたちになった。しかし、その米沢藩の
物品を最上川の水運で酒田の町に集めてきて、日本海海運に乗せる商売で大儲けしたわけだから、
「公益の祖」はしたたか者!


伝記まんが

旧本邸の向かいの売店で買った本間光丘の伝記まんがによると、武家の世の中が終わった後も
本間家は明治、大正、昭和初期まで大いに発展を続けた。 (戦後に解体されたのかな?)


山居倉庫(明治26~)

それにしても、あいにくの天気なので旧鐙屋とか旧本間邸とか、インドアを重点的に見ているけど
やっぱり歩き回るときは傘をささないといけない。写真の山居倉庫は米の保管倉庫として作られ、
現在も使われている。西側にあるケヤキ並木は、倉庫に西日を当てない工夫だという。


現在の酒田港

13:30をまわってお腹が空いてきたので、せっかくだから魚市場のほうまでいってみることにする。
なにか、おいしいものがあるかもしれない。飛島(あすかと読みそうになるけど、とびしま)行きの
定期船の発着港が「さかた海鮮市場」として賑わっている。飛島はウミネコの繁殖地。


さかた海鮮市場

海鮮丼とか食べられそうなレストランの看板が見えたので、「やったー!」と思って近づいていったら、
そこにだけ人がいっぱい詰めかけて、入口がどこにあるか一見わからないぐらいの行列をなしている。
食事するのは、もうあきらめたよ。


だめだこりゃ

やむをえず、売店のアメリカンドッグで空腹を紛らせ、ぶらぶらしてから「さかた海鮮市場」を立ち去る。
いったい、ここまでなにをしにきたんだろう?


飛島行き定期船

山居倉庫をぐるっと回って、歩いて駅に戻る。ちょっと晴れ間が見えた。が、酒田から新潟までの線路が
雨の影響で不通になっている。「帰れない・・・?」と思ったら、JRバスで余目まで振替輸送してくれて、
そこから新庄まで陸羽西線にガタゴトゆられて帰ることができた。よかった、よかった。


山居倉庫のケヤキ並木
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