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市の星月夜日記

織江市の短歌、エッセイ

モナリザは扉のごとく微笑めり己が心の深みへ繋ぐ

2017-03-16 20:46:50 | Weblog

モナリザ2017擱筆。


ペンドローイング。


モナリザのモデルはいったい誰だったろう?


わたしは彼女はレオナルドその人の似姿ではと思う。


彼とラファエルロは大変な美形だったそうだ。


ラファエルロはノーマルなモテ男子だが、レオナルドは男色家だった。


レオナルドの作品を見ると、聖母子にせよ、聖ヨハネにせよ、皆顔立ちが似ている。

ボッティチェルリのように、年代によりお気に入りのモデルが変わることがない。


たぶんナルシストだったレオナルドは、モデルを使っても、結局自分の顔を描いたのではないかしら。


モナリザも。





神に感謝。





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懐かしい空色を想ふ遠ざかるほど温かくなる思ひ出にして

2017-03-15 20:57:29 | Weblog

空色に



今日はこんな感じ







静かな日だった。


感謝。
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いくたびのめぐりを知るや微笑みて人に触れざるとほきまなざし

2017-03-14 10:30:02 | Weblog


またモナリザを描き始めた。

昨年の今頃、やはりモナリザをペンドローイングし、そちらを見ながら当時のことを思い出した。

海が恋しくて、いろんな絵に海の景色を嵌め込んで気持ちを慰めていたこと。モナリザにも。

そしてその一方で故郷山梨への感謝を表して県立美術館から見た富士山、甲府の冬の風景もモナリザの中に描いた。


今、自作の顔だけ眺めたら去年よりやわらかくなったようだ。




柔らかさ。

そういう気持ちで描いて行こう。


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潮呼ぶはいずれの笛か空高く投げ出す心あらば青春

2017-03-12 17:54:10 | Weblog


海に










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我も彼も人の子いつかゆるやかな小川踏むごと地に還るらむ

2017-03-11 20:26:10 | Weblog


月と柘榴の聖母


1487年、ボッティチェルリ「柘榴の聖母」アンテルプレット。



科学万能の時代でも、信仰は変わらない。


五感を超えた奇跡、神秘はある。


そんな思いで描いた。





キュートなモデル、ファデット時代から約15年後、ボッティチェルリのお気に入りは、なまめいてどこか儚げな金髪美女に変わる。

この時代彼が描いた聖母は、どう見ても15歳の少女には見えない。少なくとも二十代半ば過ぎて、なにやら世俗的倦怠の雰囲気さえ顔立ちに漂う。

森茉莉、プルースト、ナボコフ、彼らは自作の中でボッティチェルリの女性を憧憬こめて引用している。

ボッティチェルリは、レオナルドやミケランジェロよりモデルとなった女性たちからのインスパイアが大きかったのではないかしら。


静かな日々、神に感謝。

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春の水面いくたり浮かぶ姫君も武者も卵も温かにして

2017-03-09 14:24:10 | Weblog


西崎漁港から。








凪の波音は水のつぶやき声のようだ。



今日からボッティチェルリの代表作の一つ、「柘榴の聖母」を始めた。


1487年完成のこの作品は、70年代初期の画像とはっきり作風が変わる。




うっかりすると美青年にも通じる面長の美貌は、可憐な少女ではなく、すっかり成熟した女性のものだ。

画家に名作を与えたモデルたちの物語が、描きながらしきりに去来する。


これも細密描写が魅力だから、急がずにゆっくり描こう。


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あどけなく笑ふ海あり手の中に潮のひかりは君のうれしさ

2017-03-08 21:39:20 | Weblog

薔薇園の聖母子部分アンテルプレット。


ボッティチェルリ1469〜1470年。


個性的な聖母で、絵には伝統的なイコンの堅苦しさや憂いが見えず、おでこで、西洋人にしては鼻ぺちゃのモデルの少女の猫に似た顔立ちからは、朗らかで陽気な性格を強く感じる。

ちょっと悪戯っぽい感情を隠しているような彼女の唇は魅力的で、猫にそっくりだ。まるでジョルジュ・サンドの小説「愛の妖精」のヒロイン、ファデットみたい。

青年時代のボッティチェルリは、このモデルが大好きだったかもしれない。

中年以降、画家のモデル女性は、小粋なファデットとはガラリと変わって、長い金髪を垂らした物憂げな美女になる。

今度は、そちらの時代のマドンナを描くつもり。

美しいが、どこか虚ろでデカダンスな表情を映してみたい。




良い日だった。

神に感謝。





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春を明かす潮の響きなだらかに腕(かひな)差し伸べて満ち退き測りぬ

2017-03-07 17:19:50 | Weblog


春の海に





静かな日だった。



感謝。
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海は我がかたはら去らずうねりたりまばゆき悪意は愛を知ること

2017-03-05 21:23:32 | Weblog


午前中、房総半島の縁をドライブした。


春の暖かなまばゆさに溢れた凪の海岸線は素晴らしかった。



透々に法律を学んでいて、面白いのは善悪の概念。


悪意とは知っていること。

善意とは知らないこと。

それは哲学に似ている。











たしかに、無垢のおさなごは善意のかたまりだ。

ドストエフスキーのムイシュキン公爵も。


またボッティチェルリを描いている。


「薔薇園の聖母子」


このマリアは丸顔、庶民的な可愛らしい子で、活発、おてんばな気性が顔立ちに現れているようだ。

神の被造物の最高傑作という気品はどうも感じられないが、イマドキならパリコレなどで人気モデルになれそうな個性的美少女。

1470年ごろ、たぶん彼女はボッティチェルリのお気に入りモデルだったろう。

絵を描いている間じゅう、わたしはいつも、モデルの少女たちと会話しているような気がしている。




だから、描き上げたあと、まるで大好きな物語を読み終えてしまったような寂しさを感じたりする。


それで、次々と描き続けるんだろう。


静かな日だった。


神に感謝。














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弥生空薄濁りたる遠凪は濃い眉のごと砂に寄るらむ

2017-03-02 15:20:36 | Weblog


1469年制作、ボッティチェルリの「麦と葡萄と一天使の聖母子」からアンテルプレット。

薔薇と麦と一天使の聖母子。


麦の穂は12本。キリストに従った12使徒を寓意するのだろう。


この聖母は憂いをたたえて上品だが、彼女の両手は全体のバランスから比べると、まるでスコップのように大きい。

この作品だけでなく、ボッティチェルリの人物の手はだいたい普通より大きい。


ラファエルロも、ミケランジェロもそう。ラファエルロの聖母は本当に優美だが、どのマリアの手もしっかりと肉厚だ。

レオナルドの描く手は、彼らとはまたちょっと違うが、やはり念入りに描く。モナリザの手など、まるで重力を感じさせない美しさだ。白貂の貴婦人の手はそれに反して、意外にも無骨。


手だけ眺めてみても、巨匠たちの創造性の一端に触れることができそうな気がする。





感謝。




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アルファポリス