ギリシャ神話あれこれ:マルペッサの夫選び

 
 もう10年も前、シングルマザーのマスター(=修士)だった私の、後見人と自認する、ピカコ女史という年配の女性がいた。私にあれこれと世話を焼き、いかにも尤もらしい人生訓を垂れた。その一つに、こんなのがあった。
「女というものは、30歳にもなれば、誰でも三角関係に陥るものだ」
 ……これ、ホント? まだ若かった私は、首を傾げつつも、反論せずに黙って聞いていた。
 その後、ピカコ女史は、私の最大の抑圧者の一人に転じた。彼女は、私の意思に構わず、私を自分のお気に入りの男に娶らせようとし、その男の性犯罪を、ニコニコ顔で「愛情の証」と言ってのける人間だった。否、私の範疇では、それは人間に入らない。
 この女史のことも、小説に書かなくちゃいけない。

 軍神アレスの息子エウエノスに、マルペッサという美しい娘がいた。アレス神の子らには凶暴なのが多いのだが、このエウエノスも、自分との戦車競技に勝てば娘をやるが、負ければ首を切る、という条件で、娘マルペッサの求婚者たちを片っ端から殺していた。
 
 さて、このマルペッサには、早くからアポロン神が見初めて、しばしば言い寄っていた。が、アポロンがゲットしないうちに、同じく彼女に恋い焦がれていたイダスが、彼女を戦車に乗せて連れ去ってしまう。
 このイダスというのは実は海神ポセイドンの息子で、父ポセイドンから、翼のついた空飛ぶ戦車を借り受けて、マルペッサを略奪したわけ。
 激怒したエウエノスは戦車を駆ってイダスを追跡したが、やはり神車には及ばない。とある河畔で力尽きて、追跡を断念、馬を殺して自分も川に身を投げる。

 が、アポロンのほうは指を加えて黙っているはずがない。イダスのいるメッセネに赴いて、マルペッサを連れ去ろうとする。で、イダスとアポロンとの激しいマルペッサ争奪戦。あわや一大事というところで、ゼウス神が仲裁に入る。
 ゼウスは、マルペッサ自身に相手を選び取らせることにする。彼女は思案の末にイダスを選ぶ。
 曰く、不死の神よりも、自分とともに年老いる人間のほうがよい。他日アポロンは、老いた自分を捨て、別の若い女へと心移りするだろう。……ま、妥当な選択。またしてもアポロン、面目丸潰れ。

 これとは別に、珍しくアポロンの想いが叶った恋の話。キュレネという美しい、男勝りのニンフに、アポロン神は恋をする。彼女は力強く野山を駆け、狩猟に熱中するワイルドな美女。
 彼女が武器も持たずに、獅子と組み打ちしている姿に、アポロンは一目惚れ。今度こそはと手際よく、彼女の眠っている隙に、彼女を黄金の馬車に乗せて、遠くアフリカまで連れてゆく。

 ま、キュレネはいささか単純だったらしく、そんなことには動じずに、見知らぬその地に落ち着き、アポロンとのあいだに養蜂の神アリスタイオスを儲ける。後日譚もなく、ハッピーエンドだったらしい。

 私は今まで、二人の男性に同時にそばにいてもらったことがない。だから、どちらか一人を選択したこともない。それが幸か不幸かは、分からないけど。

 画像は、ブリッジマン「キュレネを連れ去るアポロン」。
  フレデリック・アーサー・ブリッジマン
   (Frederick Arthur Bridgman, 1847-1928, American)


     Related Entries :
       アポロン


     Bear's Paw -ギリシャ神話あれこれ-  
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

コサック出身の画家

 

 相棒がCDのジャケットの絵を見せて、「スリコフもいいよ」と言った。それは、月夜の雪明りのなかに薄青く浮かび上がる、サンクトペテルブルクの議事堂広場の絵だった。
 ぞくりとするほど神秘的な、月光に濡れた雪の広場に、私はすぐさま、スリコフを風景画家と決めつけた。調べてみたら、ロシアの代表的な歴史画家だった。

 歴史画家と言っても移動派の時期の、比較的新しい画家。だから、その主題もかなり庶民的……らしい。私は歴史には疎いので、よく知らない。
 移動派(ピリドゥヴィージニキ)というのは、19世紀後半のロシアの絵画運動で、「移動美術展協会」に由来する。この協会は、アカデミーの権威や西欧古典絵画への偏重に反撥し、ロシア各地を巡回、展覧会を開催して、国民の芸術意識を啓蒙した。そのため、取り上げた主題も、ロシア農民の生活や伝統、ロシア風景、ロシア史実にもとづいた宗教や歴史、といった民衆的なものが多い。

 ワシーリイ・スリコフ(Vasily Surikov)の歴史画も、ロシア史の転換期における事件を主題に、近代化される新しいロシアと伝統を固守する古いロシア、その軋轢から来る悲劇とそれへの哀悼、を取り上げている。歴史画にたがわず、大画面に、大勢の人物が登場する。
 が、主眼はむしろ、大衆の心理や生活風俗の描写にある。人物の表情や仕種にも、わざとらしさがなく、歴史画というより風俗画の感を受ける。
 スリコフは歴史画を、生涯、たった9点しか描いていない。

 スリコフはシベリアの、コサックの家に生まれている。厳しい自然と、勇敢で強靭な人々のもとで、素朴ながらも逞しく(多分)育った彼は、ハタチのとき、アカデミーに入るべくサンクトペテルブルクへと旅立つ。馬に乗って。
 パッカ、パッカと、お馬の旅。さすがコサック一族。が、途中、古い町々を通りかかるたびに、気に入って立ち寄り、結局、サンクトペテルブルクに到着したのは、出発から一年後のこと。さすが自然児。なんという気ままさ。見習わねば。

 で、無事アカデミーに入学し、画学生の時代から歴史画を描き始めた。その後、モスクワに移り住み、先の庶民的な歴史画スタイルを確立。ヨーロッパ各国を歴訪するが、主題がロシアを離れることはなかった。
 が、キャリア半ばで妻を亡くし、落胆のあまり鬱病となって、絵筆を断つ。そのまま、子供たちとともにシベリアの故郷に戻るが、懐かしい地で過ごすなか、徐々に回復して再び絵筆を取ることができた。生まれ故郷が彼の心を癒したのだろう。

 以前、ショーロホフ「静かなドン」を読んだとき、コサックについて、一つのイメージが私のなかにできあがってしまった。はっきり憶えてないけれど、夜、戦線で、一人のコサック兵が、もう一人に、真剣そのものにこう訴えていた。
「この世にゃ、まだおいらの可愛がっていない姉ちゃんが、いっぱいいるってのに、死ぬわけにゃいかねえよう」

 世の中には、すべての絵を、あるいは音楽を我がものにしようとする人や、すべての文学を我がものにしようとする人、世界各国の地を旅して我がものにしようとする人など、いろいろいる。で、私は、コサックと聞くと、すべての姉ちゃんを我がものにしようとする人を、思い浮かべてしまう。
 スリコフについてもそうだった。ごめんね、スリコフ。

 画像は、スリコフ「ステパン・ラージン」。
  ワシーリイ・スリコフ(Vasily Surikov, 1848-1916, Russian)
 他、左から、
  「銃兵処刑の朝」
  「女貴族モロゾワ」
  「ナターリア・マトヴェーヴァの肖像」
  「アンフィーサ」
  「青銅の騎士」
     
     Related Entries :
       移動派
       イワン・クラムスコイ
       イワン・シシキン
       ヴィクトル・ヴァスネツォフ


     Bear's Paw -絵画うんぬん-
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

境界性人格障害についてのレポート(続々々)

 
 境界例は文明病だという。が、文明社会においては、完全に閉鎖された環境など滅多にない。いくら家庭環境に問題があったとしても、少なくとも本人は小学校、中学校、高校と通っていたわけで、境界例の症状が出る青年期まで、自分自身の欠損にまったく気づかなかったなんて、あり得ないように思う。
 境界例は、敢えて直視を避け、自分を誤魔化し、他者に委ねる安易な選択肢を自ら取ってきた経緯が、あるのではないか。だから、自分の抑圧者(庇護者という形を取ることもある)を許容してきた自分、その許容システムを受容してきた自分を、抑圧者の「共犯者」と感じ、そこに呪縛を見、自ら越えられない限界線を引いてしまう、そんな心理があるのではないか。

 限界線を越えたことのない彼らは、一見、大きな夢を掲げて、遥か遠くまで飛び立つことを、つまり自由を、欲するように見えても、実際には、常にその限界線近くを、輪を描いて旋回する。限界線の向こうに広がる世界の存在を、信じようとしない。
 けれども、自分のその選択を、他人に絡まずにはいられない。彼らは、自分が「被害者」(=被抑圧者)であることに対して何か、万能感のようなものを持っている。我儘で欲深に振舞っても構わないのだという、特別意識のようなものを持っている。

 境界例はアイデンティティが曖昧で、自分自身の基準を持たない。なのに、自分のすべてを受け入れるよう求めてくる。
 底知れぬ孤独を埋めようと、排他的な二者関係に入り込もうとする。だからそれは、間主観的(inter-subjective)な二者関係となる。……これは結局、相手との完全な一体感、合一への希求に行き着く。
 さながら、一つ鎖でつながれた浮き草のように、行方も分からずに、うろうろと漂い続ける。相手にとってはブラックホールだ。そうして、時間だけが無情に過ぎ去ってゆく。
 
 一般に境界例は、現実に対する認識力が貧弱と言われる。それもそうだが、そもそも、ごく普通に関心の向く世界が、極端に狭いように感じる。彼らはあくまで自分にしか関心がない。
 理性の及ぶ範囲が広ければ、自然と選択肢も広がるし、自分を客観化できもする。世界を広げること、そのためにコツコツと本でも読むことは、やっぱり、状況を改善する上でベターだというのが、今でも私の持論。そして、それ以上の改善策を、私は思いつかない。

 画像は、イェリカウ=バウマン「少女」。
  エリサベト・イェリカウ=バウマン
   (Elisabeth Jerichau-Baumann, 1819-1881, Danish)


     Previous
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

境界性人格障害についてのレポート(続々)

 
 境界性人格障害の病因は定かではないが、成育過程における両親、特に母親による過保護・過干渉、あるいは無関心が主要因であるらしい。子供時代に「分離不安(=見捨てられることに対する極度の不安)」を持った人間が、性被害などを引き金に発症する場合が多い。
 他方、境界例に性被害によるストレスが絡んでくると、概ね病症は複雑となり、治療も困難を極める。

 治療としては結局、自分の過去を受け止め、客観化していくしか方法がない。自分の病症が何によるものかを自覚し、成育過程においてこうむった欠損と、発病の直接のきっかけを知ること、それらを医師に話した上で、信頼できる医師を見つけること、が大事。

 自分の成育過程を直視しようとすると、熱が出たり、吐き気がしたりと、防衛のため身体的症状の出ることもある。が、これについては様子を見ながら対処するしかない。
 回復のためには、まず、自制心をつけることが最重要。そして、自分についてと同様、相手についても尊重することを学ぶことも重要。境界例は、徹底的に自分本位で、他人の言動には傷つきやすく、そのことで他人を責めるくせに、他人に対する自分の言動の影響には鈍感なところがある。

 最も困難な文明病の一つとされる境界例。人口の約2パーセントが、この境界例に該当するという。実に50人に1人の割合。著名人のなかでは、太宰治やヘッセ、尾崎豊、ダイアナ妃らが境界例だったと言われる。

 さて、以上はいろいろ調べれば分かる内容。で、以下は私の勝手な意見と感想。

 境界例の症状をざっと見ると、社会的機能に障害を来たすほどではないけれど、自分にも境界例のケがあるんじゃないか、と感じる人は、案外多いのではないかと思う。
 
 私自身について言えば、幼い頃から母に、父に対する不平・不満を聞かされて育った。ま、確かにアホな父ではあったけど、それでも、母からそれを聞かされ、共感を求められるのはつらかった。子供心に私は、「自分はこれから一生、父に代わって、母を幸せにしなければならない義務があるのだ」と思っていた時期があった。
 これは「分離不安」の心理とよく似ている。

 では、私は運が良かっただけなのか。もしかしたら私も、境界例を発症していたかも知れないのか。……と言えば、そういう単純なものでもないように思う。

 To be continued...

 画像は、エルスレー「少女の頭部の習作」。
  アーサー・ジョン・エルスレー(Arthur John Elsley, 1860-1952, British)

     Previous / Next
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

境界性人格障害についてのレポート(続)

 
 境界例は自己のアイデンティティが曖昧で、持続した自己イメージを持つことができない。そのため、ときどきの状況に合わせて、仮の自分を演ずる。嘘も平気で、常習的につく。気に入った人物の人格をコピーすることもある。一方で、他人の言動に左右されやすい。
 慢性的な抑鬱感(これが主要な自覚症状となる)があり、常に無力感、喪失感、空虚感、不満感といったものがくすぶっている。現実逃避として、何らかの中毒や依存症に陥ることが多い。また、いずれきっと自分が活躍できるはずだという願望を持つことで、やはり現実から逃避し、そうした願望を頼りに、甘えの感情に対して禁欲的に、分別臭く振舞おうとすることもある。
 自分の生き方が分からず、唐突に、新しい人生目標を設定して自分をリセットし、新しい人間に生まれ変われるような幻想をいだく。

 境界例の多くは、健気で寂しげで、はかなげで頼りなげな第一印象を周囲に与える。相手を信頼すると、相手に向かって自分の内面を過度に吐露し、訴える。
 その内容や態度が深刻な分、本人に自覚はなくても、結果的には相手を操作する傾向がある。自分の感情と同じ感情を、相手も持つことを欲し、受け入れてもらえないと、やはり感情を爆発させる。

 対象(人間も含めて)に対する評価が、もともと「良」と「悪」とにクリアに分裂しており、自分の持つ「悪い部分」を切り離し、その部分を他人に転嫁して執拗に攻撃する。攻撃はストレートで、自分の気が済むまで収まらない。
 自分については「良い部分」の自覚しかないことが多い。また、他人の欺瞞や偽善を見抜くのに長けている。

 総じて境界例は、自分に関わる周囲の人間(家族、友人、医療者など)を巻き込み、大いに振り回す。本人の自覚が弱い上に、その感情や行動パターンが激越であるため、周囲の人間はへとへとに疲れ、ミイラ取りがミイラとなって、鬱病などを発症することもある。
 境界例は、相手との適度な距離を保つことができず、相手に接近しようとしすぎて、自ら人間関係を破綻させ、自滅する。

 To be continued...

 画像は、A.ルーロフス「花を抱えた少女」。
  アルバート・ルーロフス(Albert Roelofs, 1877-1920, Dutch)

     Previous / Next
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »