境界性人格障害についてのレポート(続々々)

 
 境界例は文明病だという。が、文明社会においては、完全に閉鎖された環境など滅多にない。いくら家庭環境に問題があったとしても、少なくとも本人は小学校、中学校、高校と通っていたわけで、境界例の症状が出る青年期まで、自分自身の欠損にまったく気づかなかったなんて、あり得ないように思う。
 境界例は、敢えて直視を避け、自分を誤魔化し、他者に委ねる安易な選択肢を自ら取ってきた経緯が、あるのではないか。だから、自分の抑圧者(庇護者という形を取ることもある)を許容してきた自分、その許容システムを受容してきた自分を、抑圧者の「共犯者」と感じ、そこに呪縛を見、自ら越えられない限界線を引いてしまう、そんな心理があるのではないか。

 限界線を越えたことのない彼らは、一見、大きな夢を掲げて、遥か遠くまで飛び立つことを、つまり自由を、欲するように見えても、実際には、常にその限界線近くを、輪を描いて旋回する。限界線の向こうに広がる世界の存在を、信じようとしない。
 けれども、自分のその選択を、他人に絡まずにはいられない。彼らは、自分が「被害者」(=被抑圧者)であることに対して何か、万能感のようなものを持っている。我儘で欲深に振舞っても構わないのだという、特別意識のようなものを持っている。

 境界例はアイデンティティが曖昧で、自分自身の基準を持たない。なのに、自分のすべてを受け入れるよう求めてくる。
 底知れぬ孤独を埋めようと、排他的な二者関係に入り込もうとする。だからそれは、間主観的(inter-subjective)な二者関係となる。……これは結局、相手との完全な一体感、合一への希求に行き着く。
 さながら、一つ鎖でつながれた浮き草のように、行方も分からずに、うろうろと漂い続ける。相手にとってはブラックホールだ。そうして、時間だけが無情に過ぎ去ってゆく。
 
 一般に境界例は、現実に対する認識力が貧弱と言われる。それもそうだが、そもそも、ごく普通に関心の向く世界が、極端に狭いように感じる。彼らはあくまで自分にしか関心がない。
 理性の及ぶ範囲が広ければ、自然と選択肢も広がるし、自分を客観化できもする。世界を広げること、そのためにコツコツと本でも読むことは、やっぱり、状況を改善する上でベターだというのが、今でも私の持論。そして、それ以上の改善策を、私は思いつかない。

 画像は、イェリカウ=バウマン「少女」。
  エリサベト・イェリカウ=バウマン
   (Elisabeth Jerichau-Baumann, 1819-1881, Danish)


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